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プロローグ
ガチャン
鈍い音が薄暗い部屋の中に響いた。
「はあ」
疲れたという言葉を吐く事すら忘れて、彼は玄関に立ち尽くす。
田村博明23歳。
半年程前彼は新卒で企業に入社。が、1ヶ月ほど働いた頃すぐクビになり、入っていた寮も追い出された。
職を失い経歴にもバツが付いた状態で新たな就職先も見つからない。
その上彼は実家とも折り合いが悪く頼れなかった。
なので、まずは住む場所から探さなければならない。とりあえず地元の不動産屋に駆け込んだ。
対応してくれた山口という男は田村の境遇を聞きながら大袈裟に頷いたり同情を示したりした。
「それはお困りでしょうな。私共としてもお力になりたいと思います」
「ありがとうございます。そういう訳なので、なるべく初期費用含めてお安く。すぐにでも入れるところがいいんですが」
言い出しにくそうに田村は自分が今出せる精一杯の値段を伝える。
「ふむ、やはりそうですよね。そういう事であれば」
山口は手元にあるファイルを捲るとあるページで手が止まる。
そのまま固まるように動かなくなった。それまでの柔和な顔も少し曇っている。
二人の間に起きる沈黙。
田村はその様子を不思議に思い、声をかけた。
「あの」
言われた山口も我に返ったようで
「あ、ああ。すみません」と言葉を返した後、無理に作り笑いを浮かべながら「ここなんですけど、どうですかね」と間取り図の付いた資料を見せる。
和室、洋室各6帖、別にダイニングキッチン6帖。バストイレ別。広々とした収納スペース有り。
築5年の、5階建てマンションの2階だった。
「ここですか? 良さそうな部屋ですけど」
立地は街から少し離れているが、それでもかなりの好条件に見える。
「これならすぐに入れます。契約して頂ければ明日にでも大丈夫ですよ」
「それは有りがたいんですが」
「ご安心ください。初期費用はいりません。敷金礼金諸々無しです」
「え!本当ですか?」
「家賃はズバリ、2万円ぽっきりです」
いくらなんでも安すぎる。からかわれているのかとも一瞬思った。
「は、はあ。いやいくらなんでも。そんな事あります?」
「本当です。更に年契もなし。更新など気にせず嫌になったらすぐに出ていって貰って構いません。なんなら次もお世話しますよ」
口を差しはさまれるのを嫌がるように、山口は話す言葉のスピードを速めて言い終える。
だから、その様子をみて田村は疑惑の念が深まるのを抑えられなかった。
「流石に何かあるんですよね?」
遠慮会釈もなく思った事を口にする。この時点で田村もそれが普通でないことは察しが付いていた。何か理由があるに違いないのだ。
「まあね。勿論理由はあります。単刀直入にいいましょう。この部屋は心理的瑕疵有りの物件なんです」
「心理的瑕疵っていうと?」
聞き慣れない言葉を言われて田村は戸惑った。それに対して、意外にあっさりと山口は答えた。
「人が亡くなってるんです」
「ああ、やはりそうですか。事故物件って奴ですね」
普通に聴けばショッキングな内容かもしれない。しかし話の流れから田村もそんな所だろうと予測はつけていた。
「ええ。非常に心苦しいのですが、すぐに入居出来て予算も低く抑えられるとなると、まずはこちらが浮かびまして」
「はあ」
申し訳なさそうに言う山口に田村は微妙な返事を返したが、心はほぼ決まっていた。
田村だって普通に働いていて普通に暮らしていたら進んでこのような部屋を選びはしない。
でも、今は贅沢を言っていられる状態ではないのだ。
「背に腹はかえられません。お願いできますか?」
迷いを振りきるようにハッキリ言葉を伝える。
「本当によろしいんですね?」
山口は自分で勧めておきながら、決まりそうな段になると、硬い口調で念押ししてきた。
勧めて見たものの現実味が帯びる事で緊張感が漲ってきたようだ。
その様子に田村は迷いを断ち切るように真っ直ぐ目を見据えて言った。
「それさえ目をつぶれば破格の条件です。人間いつか死ぬわけですしね、気にしても仕方ないと思う事にします」
その言葉を聞き、ぎこちないながら山口は顔を柔和な物に戻した。
「そうですか、ありがとうございます。こちらとしても本当に助かります。では、契約を進めましょう」
「はい。で、あの。因みにこれ聴いていいのか分からないんですけど」
「はいなんでしょうか。今の内に質問があればお答えしますよ」
「前の住人の方。死因というんでしょうか。どのようにして亡くなったんでしょうか?」
「ああ。やはり気になりますか?」
山口は困ったような、それでいて仕方ないよなという雰囲気の表情を浮かべる。
「はい。それは、気にならないと言えば嘘になります。教えて頂けますか?」
言った途端に後悔の念も浮かぶ。が、もう遅かった。
「縊死です」
山口からシンプルな言葉が放たれる。
「イシ?」
「はい、首を……」
「ああ、その縊死ですか」
つまり首を吊ったのだ。
その様を想像しそうになる思考を振り払うように山口は言う。
「教え頂いてありがとうございました。よろしくお願いいたします!」
それで決まりだった。
日を開けずに直ぐに入居した。
部屋は想像以上に綺麗で広々としている。
(住みやすそうな部屋だ。これは掘り出し物かもしれないぞ)
悪いことが続き、先が見えない中で得られた幸運。
(ここから全て上手く行くかもしれない)
そんな風に心を踊らせた。
すぐに就職はできないだろう。仕方ないので派遣会社に登録して単発の仕事でしのぐ事にした。
そんなこんなであっという間に2週間が過ぎる。
今日の仕事はモデルルームの会場案内。外に立って看板を持ち8時間立ち続けるというもの。ただただ、退屈な上、足腰にも負担がかかる非常にきつい仕事だ。
(早く終われ。早く帰りたい)
心で念じながら待ち望んだ終業時間。心身共に疲弊した状態でようやく愛し我が家に帰宅した訳だ。
次の日も早いのだ。今日も早く寝なきゃならない。
スーパーの半額シールが張られたマグロ丼を平らげ、シャワーを浴びてすぐ布団に入る。
暗くなった部屋で暫し目を開けたままぼんやり天井を見上げていた。
すると、
ギッ~、ギッ~、ギッ~、ギッ~ギッギッ
音がした。
何かが擦れるような音。
その音が鳴るのは今日が初めてではない。
入居した初日から、どこからともなく聴こえてくるのだ。
ギッ~、ギッ~、ギッ~、ギッ~ギッ~。
初めは上の階から聴こえてくるのかと思ったが、どうも様子が違う。
音の発生源は明らかに部屋の中だ。
(幻聴かな。心の中でやはり気にしてるのか)
この部屋が破格で入居出来た理由。
それを忘れた訳ではない。
でも、敢えて意識しないようにした。
住めば都だ。部屋に不満は何もない。
それさえ気にしなければ暮らしていける。
考えるな。考えるな。
しかし、
ギッ~ギッ~ギッ~ギッ~ギッ~
鳴り続ける異音に思考が鈍る。
更には真上の天井に何かが見えるような気がした。
いや、気がしたではない。
見える、
いつの間にか寝ている自分の真上。
ギッ~ギッ~ギッ~ギッ~ギッ~
音と共に天井から紐状の何かが垂れ下がり、先に何か大きなものがぶら下がっているのが解る。
それは真っ黒な人影だった。
ギッ~ギッ~ギッ~ギッ~ギッ~
ロープにぶら下がったソレは音に合わせて大きく揺れていた。
(ウソだウソだ。信じたくない。幻覚幻聴だ。こんな事あるはずない)
思ったと同時に気づく。
自分の身体が動かない。いわゆる金縛りだ。
身動きできず目も閉じられなくなってしまった。
ギッ~ギッ~ギッ~ギッギッギッ~
音と共に真上で起きている大きな振り子運動。
それは彼の意識が途絶えるまで止むことは無かった。
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