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婚約なんて嘘だろ?
父の会社で専務取締役をやっている俺――橘花虎太郎は秘書の古川愛生緒に聞き返した。
「何だって?」
「ですから、この度婚約することになりましたのでご報告させて頂きます、と申し上げたんです」
俺は愛生緒の澄ました顔をまじまじと見つめた。サラサラの黒髪に綺麗なアーモンド型の目。艶のあるピンク色の唇。整いすぎていて、幼い頃から人形みたいだと散々言われてきた顔だ。大人になってからは彼を落とそうとして返り討ちにあった男たちから「どんな男も狂わせる美人オメガ」として恐れられている。ノンケや妻子持ちが愛生緒に人生を狂わされるのを俺は何度も見てきた。
俺たちは実家が近くて生まれた時からの幼馴染だ。彼の方が3つ年下の26歳。昔は愛生緒のことを綺麗で可愛い弟のようだと思っていた。だが、俺が高校に上がる頃には彼の不思議な魅力に気付いて、近づき過ぎると危ないと感じるようになった。
いや、正直に言おう。愛生緒のことがずっと好きなのだ。だが、彼が何を考えているかがサッパリわからない。ニコニコしながら、他人のことを切り捨てるような冷ややかなところがある。今のところ俺には優しいが、親しくない人間には冷徹なのだ。
その刃がいつこちらに向けられるかわからないので、怖くて俺は距離を置くようになった。
愛生緒とは付かず離れずの距離感が良いんだ――と俺は思っていた。
そんなわけで高校から大学にかけては、ほとんど行動を共にする事はなかった。
親同士が親しかったから、たまに家族の集まりなどで顔を合わせる程度。
近所に住んでいるからたまに姿を見かけることはあった。しかし、向こうが気付かない限りこちらから声をかけることはしなかった。
しかし俺が就職し、その数年後に愛生緒が就職してから状況が変わった。
なぜか愛生緒が俺の父親の会社で働き始めたのだ。彼のお父さんも会社を経営しているんだからそちらへ行けば良いのに、だ。
「会社は兄さんが継ぐから僕は用無しなの」
彼には6つ年上のアルファの兄がいる。オメガの自分は好きにして良いんだと話していた。たしかに彼の父親は愛生緒に甘い。何をやってもにこにこしている記憶しか無く「愛生緒の好きにしなさい」と言って目を細める姿が浮かんだ。
そして、俺が専務に任命されたとき愛生緒は俺の秘書になった。
そこからは休日以外毎日顔を合わせている。相変わらず彼は365日文句なしに美しく、微かな香りが執務室に彩りを添えてくれる。仕事もそつなくこなしてくれるので文句はない。
しかし、オフィス内で男を誘惑するのだけはいただけなかった。
「僕はそんなことしてない。向こうが勝手に言い寄ってきて勝手に騒いでるんだ」
と彼は言う。
実際彼の態度ときたら基本的にとことん冷たい。仕事相手には完全に事務的な対応しかしないのだ。だが、その彼が気まぐれに優しさを見せたり、微笑みかけるのを見ておそらく相手が勘違いするんだろう。
その手合いが愛生緒に気があると踏んで恋人や妻がいるのにアプローチをかけ、付き合ったかと思うとあっさり振られる。去年あったケースだと奥さんが会社に怒鳴り込んできて職場を去った役員もいる。
(怖い怖い。俺も愛生緒が優しいからって勘違いしたら他の男達の二の舞だ)
そんな時でも愛生緒はケロッとしていて、どこ吹く風だ。
周りも「またか」というような呆れ顔で、業務に支障がない限りはスルーするようになっていた。
そんな訳で、俺は勝手に愛生緒は恋愛に興味が無いんだと思っていた。しかもオメガだし美人だし勝手に恋愛対象は男だと思い込んでいたのだが――。
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