『砦』

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『砦』

─── 「これは、、、」 寿司と共に並んだ平皿を覗き込んだ丑蜜(うしみつ)が記憶を探るようにして呟く。 麩を浮かせた吸い物を配した後に虎太郎(こたろう)が運んで来たのは、ふぐ刺しのようにスライスされて皿いっぱいに広がる、白い衣を纏った魚だった。 発酵の香りを伴う橙色の魚卵は、ターコイズブルーの皿に映えて目にも鮮やかである。 「鮒寿(ふなず)しです。 滋賀県の琵琶湖で獲れるニゴロ鮒(・・・・)を乳酸発酵させたもので、骨まで食べられるほど熟成させると、鮒のイメージを覆すほど美味しいんです。 あ、、、僕は、ですけど。 好き嫌いは分かれますが、もし良かったら」 「琵琶湖の『(ふな)寿司』か。 うめね君は、まるで郷土料理マイスターだな」 真剣な顔で鮒から顔を上げる丑蜜に虎太郎(こたろう)は声を出して笑った。 「これも祖父の好物だったんです。 毎年樽に詰められたものを取り寄せて パントリー、、、といっても単なる食品の物置きですけど、そこで熟成させてます」 「臭いが独特だと聞いたことがあるが、噂ほどでもないな」 「常温では凄い臭いですよ。 ですが完熟後に一つ一つシーリングして冷凍すると、若いチーズのように芳しくなるから不思議なんです。 食べる直前に冷凍庫から出してこんな風に薄くスライスして食べます。 、、、どうぞ」 「なるほど。 では早速頂くとしよう。 、、、ああ、これはうまい、まさしく若いチーズだ」 再び顔を上げる丑蜜の驚きに満足し、自分も箸を取る。 冷凍庫には昨年真空パックした鮒ずしがまだあり、パントリーには今年買った樽いっぱいの鮒ずしが次なる冷凍を待っているが、祖父のいない今年は樽においたまま冬を越させるしかないな、などと思いつつ、虎太郎は丑蜜がぶら下げてきた高級寿司にも手を出した。 「醤油さしの中身が少ないですね、今足して来ます。あとお茶を、、、」 言ったあとに少し考えて、 「丑蜜さん、日本酒どうですか?」 「酒?」 「はい。 実は鮒ずしには酒が良く合うんです。 こんな高級なお寿司まで頂いてしまったので、鮒ずしと大吟醸、それから漬物で今夜の食事代を相殺させて下さい。 猫缶のお礼は、、、また」 酒を勧めた上に『また』なんて、こっちから誘ってると思われただろうか、などと考える。 「レアな郷土料理を前にして俺の寿司は(かす)んでるけどな。 今夜は何とかと言う湖魚の圧勝だ」 「ニゴロ鮒です」 虎太郎はクスクスと笑いながら台所へ向かった。 思いも依らず衝撃的な告白を受けたものの、虎太郎からの意思表示を催促したり、或いはむやみに迫るなど、警戒させるような言動を一切しない丑蜜には好感が持てた。 気構え不要の何気ない会話も丑蜜とだと一層楽しくて、気がつけば虎太郎は心から笑い、饒舌にもなっていた。
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