ママの誕生日

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ママの誕生日

 ――カチッ。 玄関の扉を開ける。 美紀を朝いけた小手毬が迎える。 「ただいまー!」 一応リビングに声を掛けてみる。 でも返事はない。 (――あれっ、今日確か仕事はなかったはずなのに) 美紀は小手毬の花びらを指でつついていた。 ハラハラと小さな花びらが舞う。 美紀は慌てて、それを手でおさえた。 玄関で脱いだ靴を軽く磨いた後で、シューズボックスにしまう。 これも沙耶の勧める風水だった。 家族の人数分より多く履き物は置かない。 玄関は何時も綺麗に。 基本の中の基本のようだ。 鞄を廊下に置いて、サンダルに履き替えタタキからエントランスを履く。 そして初めて家の中に上がった。  仏間に入った美紀は先ず、形見のラケットを珠希に返した。 その後で備えられていた陶磁器の花瓶を手に取って、玄関の近くにある花壇に向かった。 隣接している水道の可愛い小鳥の蛇口を捻り、バケツに水を汲む。 花瓶に元々あった花をこの中に入れ、水切りをした後殆ど花のみにして水盤に浮かべて玄関に飾った。 その後花瓶を洗い流して花壇に向き合った。 美紀は此処からチューリップを数本選んで花瓶にさした。 この花壇はホワイトデーに、バレンタインデーのお返しとして、正樹が中心となって作ったものだった。 今まであった小さな花壇。 美紀が矢車草の種を蒔いた花壇の外側に。 今は美紀が中心となり育てている花壇。 どうしても、珠希の好きな花の種を蒔いてしまう美紀だった。  美紀は珠希の仏壇に花瓶を置いて前に座った。 「ママ。お誕生日おめでとう。チューリップやっと咲いたよ」 珠希の大好きだったチューリップを、美紀は見様見真似で育てていた。 去年うっかりしていて、球根を植え付けるのが遅れたのだ。 それは…… ソフトテニス部のキャプテンに選ばれたからだった。 遣らなければいけない事が満載で、帰宅時間も遅れがちだった。 責任感の強い美紀は、部活のために頑張っていたのだった。 でも、それを口実にしたくはなかった。 だから、物凄く気になっていたのだった。 「でも、間に合って良かった」 美紀は涙ぐんでいた。 それほどチューリップの咲くのを待ち望んでいたのだった。 五年前の春。珠希は亡くなった。 今日はその珠希の誕生日だったのだ。  国体の選手だった珠希は健康そのものだった。 突然の事故が珠希の命を奪った。 中学で本格的にソフトテニスを始める美紀のために、正樹とラケットを探しに出た珠希。 練習用のラケットは持っていた。 でもそれは公式戦では使えない。 試合で使うマークが無いからだった。 公式戦ではプレイ前にラケットトスをする。 まず審判にそのマークを示してからヘッド部分を下に付け回して先行後行を決めるからだった。 挨拶の後、両チームの片方のプレイヤーがジャンケンをする。 負けた方はラケットの公認マークを相手に示してからラケットのフレームを下にしてコート上に立てて回す。 ジャンケンに勝った方はラケットがコート面に倒れる前に表か裏かを指定する。 公認マークを表として、ラケットがどちらの面を向けて倒れるかを言い当てるのだ。 そのためにこのマーク付きのラケットが必要だったのだ。 そのラケットを購入するために、珠希と正樹は出掛けたのだった。 正樹が今でも悔やむこととなる、珠希の運転で……  その時だった。 センターラインを大きくはみ出した大型トラックと衝突してしまったのだ。 運転手が、落とした携帯電話を拾おうとしたために起きた事故。 一瞬目を離した時の脇見運転が原因だった。 正面衝突。 即死だった。 助手席にいた正樹も、全身打撲で生死の堺をさまよった。 幾度となく、死の淵に立つ正樹。 その度、呼び戻そうと必死な兄弟。 正樹はそんな兄弟の懸命な看病によって、一命を取り留めることが出来たのだった。 でもそれだけではないことは正樹本人が一番理解していた。  それは子供達の、二人の母の存在だった。 死の世界へ向かおうとする正樹を、必死に止めて断念させようとしたのだった。 子供達だけにしたくない母の愛だった。 一緒に逝くことを拒んだ妻・珠希。 此方に来ることをはねのけた智恵。 二人の母と子供達の思いが正樹を蘇らせたのだった。 正樹は当時、平成の小影虎と言われた人気のプロレスラーだった。 この事故のために引退せざるを得なかったのだ。  でも美紀はそのいきさつを知らない。 余りのショックに倒れてしまったのだった。 意識朦朧とする中で、美紀はある光景を目撃する。 正樹が珠希の後を追っていた。 その時、美紀にはその先に何があるのかが解った。 それは正樹の死を意味していた。 美紀はもがいた。 もがき苦しんだ。 目の前の正樹を救うために必死に呼びかけた。 でもそれは声にはならなかった。 それでも美紀は立ち上がって、正樹の前に立ちふさがった。 美紀はそれが自分だと思っていた。 でも本当は違っていた。 それは、美紀の産みの親である結城智恵だった。 結城智恵が、正樹を救おうとして、美紀の体を借りたのだ。  そのお陰とでも言おうか? やっと意識を取り戻した正樹に珠希の死が告げられる。 瞬間に又意識が遠退く。 余りにもショックだったから。 そして遂に正樹の体と意識が帰って来る。 改めて珠希の死を知る。 正樹はラケットを一緒に入れて送り出したやりたいと付き添っていた秀樹に言い出した。 「ママが天国に行っても、大好きなテニス出来るように入れてあげて」 必死に頼む正樹。 でも秀樹は首を振った。 美紀のためを思ったからだった。 美紀にラケットをプレゼントするため夫婦で出掛けたことを美紀は知らなかったのだった。 もし美紀が知ったら? 美紀はきっと自分を責め続ける。 秀樹はそう思って、母の形見のラケットを残してくれるように進言したのだった。 自分が母と同じソフトテニスの選手になりたい、と思わなかったら母が死ぬことはなかった。 その事実は正樹と秀樹の一生の秘密になった。  美紀はずっと、珠希の形見となったラケットを抱きしめ離そうとしなかった。 心が砕けてしまいそうだった。 ただ傍で見守ることしか出来ない自分が歯痒くて。 秀樹はそんな美紀からラケットを取り上げることなど出来る訳がないと思ったのだった。 そのラケットは珠希の勤務先の中学校の同僚が届けてくれた一本だった。 珠希は前衛だった。 だからそれに相応しいシャフトが二本タイプのを愛用していた。 それは美紀も良く目にしていた物だった。 だから思わず抱き締めてしまったのだ。 でも本当は其処にはもう一本あったのだ。 それは後衛を指導する時に使っていたシャフトが一本の物だった。 美紀はまだそのことを知らずにいた。  部活動を終えて秀樹が帰って来た時、美紀は唐揚げを作ったいた。 「おっうまそ」 つまみ食いをする秀樹。 「秀ニイ、先に手を洗ってよ。全く子供なんだから」 美紀のお目玉を食らって、シュンとする秀樹。 コソコソ逃げ出す。 そこへ直樹が帰って来る。 「おっ唐揚げ、久しぶり」 つまみ食いしようとした手を、取り上げる美紀。 「食べないでよ。ママが悲しむ」 「ママが…… あ、唐揚げか? そうか、今日はママの誕生日か」 直樹はマジマジと美紀を見つめた。 「そうかだからそのヘアースタイルなのか?」 美紀は何時もはツインテールで、珠希の記念日だけ真似をすることにしていたのだった。 長髪は料理の邪魔になる。 そこで、髪を後ろで一つにまとめるのだ。 それは生前の珠希が普段やっていたヘアースタイルだったのだ。 だから直樹は見ただけで気付いたのだった。  小学六年生のバレンタインデー。 美紀は珠希ににトリュフチョコと唐揚げの作り方教えてもらった。 市販の製菓用チョコレートを刻んで、熱い生クリームで溶かす。 これをココアの入ったバットに置く。 ココアと一緒に一口大に手のひらで丸めココアパウダーでコーティングする。 鶏肉にめんつゆを少量絡め、空揚げ粉を振り入れ良く混ぜてから油で揚げる。 トリュフも空揚げも、男性陣に大好評だった。 そのお返しの花壇に蒔いた種がやっと発芽した頃、珠希が返らぬ人となってしまったのだった。  悲しみ暮れる美紀。 暫くは何も手に着かなかった。 遣る気はあった。 ママの代わりにならなければいけないとも思った。 でも出来なかった。 てきぱきと家事をこなすママの代わりなんて、自分には務まるはずがないと思っていたのだ。 三つ子の兄弟の世話は、珠希の妹・叔母の沙耶が見てくれた。 その時美紀は沙耶から、本当は珠希が鶏嫌いだったことを教えてもらった。 そう言われてみると、おっかなびっくりだった珠希。 美紀は、自分に教えるために無理をした珠希の負けず嫌いの性格に感服した。 美紀は悲しみを乗り越えるために再び唐揚げを作ったのだった。 母・珠希との大切な思い出の日に限って。  でも美紀は不思議だった。 実は美紀も鶏が苦手になっていたのだった。 そう…… まるで、珠希の鶏嫌いが移ったかのような錯覚に時々陥る。 美紀は自分自身に自信をなくしていた。 物凄くパパが好きになる。 物凄く兄弟が愛しくなる。 美紀はその度に戸惑っていた。 (――ママになった気分てこんなものなのかな?) 何気にそう思った。 それが何を意味しているのか? 本当に美紀は何も知らなかったのだ。 ーーーーー  美紀ごめんなさい。 私どうしても鶏肉が駄目なのよ。 それはね。 お祭りでヒヨコを買ってもらった時のことなの。 私の子供の頃は、縁日やお祭りの店にヒヨコが売られていたの。 カラーヒヨコって言ってカラフルだったわ。 でもそれは普通のヒヨコに色を着けただけだったの。 大きくなるにつれて色は薄くなって、ただの鶏になってしまったの。 家では飼えなくなって叔父さんにあげたら食べられちゃったのよ。 それがショックで、鶏肉見る度に思い出しちゃってね。 その後苦手になったのよ。 ねえ美紀。 私の誕生日を覚えていてくれてありがとう。 でも、当たり前か。 私はアナタなのだから。 ーーーーー
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