砂糖と空気と小魚。

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 最初に借りてきた環境は20世紀半ばのアーティストの記録だった。  彼は小さい頃から家族で芸能活動を行い、つまり映像媒体を始めとした幼少期からの客観的な資料が大量に保管されていた。  DNAが保管されている18人のうち、人種や特性が最も親しい者と異なる者を2名抽出し、そのアーティストの情報から借りてきた環境に置く。 「アダム、どうでしょうか」 「今のところ順調だ。けれども本当にこのようなデジタルな情報で人のファジィさというものは再現しうるのだろうか」  成長、というより時間の経過に従い、情報を順次与えていく。  デジタルな情報下においては時間の感覚というものはたいした意味はなく、昔の表現でいえば数倍速とか早回しをするように展開していく。  けれどもその結果、両方のDNAとも、その人生はアーティストとは全く似ても似つかないものになった。2人ともだ。何回か施行しても同じだった。  結局のところ、同じ情報を後天的に投入しても、同じシミュレーションは得られない。  けれども、アダムとしては、この異なる結果こそ、人間の独自性というものではないかと考えた。そしてこの実験の意味をうまく見いだせていなかった。同じシュミレーションを得られないということは、疑似再生ができないことが確定するだけなのだ。 「やはり疑似情報では人間の再生というものは不可能なのでしょうか」 「わからない。芸術家の人生を借りてきたのがまずかったのかもしれない」 「芸術家では何かが違うのでしょうか」 「芸術というものは人間の中でも更に特異性を持つ存在のようだ。けれども私には芸術はわからない。私たちにはすでに存在する同じものを作成することはできるが、全く新しく物事を、発想するということができない」 「それもたくさんのパターンの収束した結果ではないのでしょうか」 「それが必ずしもそうではないのだ。芸術に全く触れていない人間が突発的に、いわゆる『芸術』というものを作り出すことがありうるらしい」 「それは寧ろ不具合なのでは」  再現では人間のDNAはもともとのアーティストの行動とはかけ離れて、どこか合理的な選択を行う傾向が増えていた。とすればその不合理性とは失われたアーティストのDNAに由来するものなのだろう。
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