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けれども今日もなにも変わらないまま、ただ静かに暗記。そうして退社時間になった。
まあ、この仕事には退社時間などあってないようなもの。ここにいる大半がギリギリまで覚えたいとノートかメモに張り付いている。特に子供姿の新入社員数名は。…まあ、一月からは休めとも言えない。
そっと会社を抜ける間際、一人の後輩が私に近づいて、耳打ちしてくる。「先輩、上がりですか?」「ええ」と返せば、良いなぁ、と輝きに満ちた目で見つめられる。「私は別途やることがあるので。」と。
「こんな仕事、私もやめたい…でも、止めたらあの子が困るし…」
後輩には彼氏が居るんだっけな。この仕事は高収入だけど精神はやられる。
理解できる愚痴は、聞かないふりをしてやった。代わりに、「元の世界に戻れば暗記もなくなる。もうすぐだよ」と言ってやると、後輩は冷めた目で笑い返した。
「いえ。なくなる時は世界が完全に変わったときです。もうすぐですよ。」
――ああ、彼女は希望を捨てたのか。
御愁傷様、と呟いて、私は一人で会社を出た。
「明日の天気は晴れ!明後日が大雨とは感じられないくらい晴れますよ!」
今日のニュースをネットで見終えると、夕暮れ時に私は電車を降りる。けれど今日は家の最寄りではなくて、少し廃れた町の駅に切符を通した。少し用事があるのだ。
駅前の虫が張り付いた地図を目で追っていると、ふと背後から聞き覚えのある声がする。
「よっ!」
「あ、益坂!あんた、仕事は?」
そこには会社にいた時から変わらない、ラフな格好をした益坂がいた。開いたシャツの胸元に目がいって、慌ててそらす。
「もーいいの。毎年そうだったろ。ったく、声かけてくれりゃ~良かったのによ…って、どうしたんだ、顔赤いぞ?」
「べ、べつに」
「はは、お前はいつになってもウブで新鮮だよなぁ」
「うるさい。こっちからすれば、あんたも退屈知らずって感じだけど?」
「お互いにお互いがそばに居るからじゃね?」
「まあ、それはあるかもだけど」
「だろ?試しに…」
そうして益坂はわざと胸元の二番目のボタンをはずしてもっとドキドキさせようとしやがるので、私はおばさんの平手打ちを食らわしてから、覚えていながらも確認した右の道へ並んで歩いた。
繁華街には繁華街らしい賑わいがあった。一月十日はまだお正月気分が抜けないのだろう。羨ましい限りだ。そんなものは国家の犬というか社畜にはない。私は自然と溢れる吐き気を抑えつつ、そのまま暗い路地へ入っていった。
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