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この時間は夏ならば夕刻だろう。
しかし、外は暗い。
闇の帷の垣間に、少年は外に出た。
背徳と闇の帷
1.アメジストの泪
赤髪を半分刈り上げた少年は、街灯の下でスマホを弄っていると、声を掛けられた。
その少年は煙草をアスファルトに押し付けてから携帯灰皿に捨てる。
「久しぶり、アキノ」
声を掛けてきた黒髪に眼鏡の少年は、白い学ランを着ていた。
それはこの辺りで一番偏差値の高い高校の物だ。
「ユウリ久しぶり」
アキノが手を挙げるとユウリはその指を絡めた。
二人は小さく笑い合う。その恋人繋ぎは、アキノのジャージのポケットに入れられた。
「会えなかった一週間、何してた?」
「んー、ちゃんと学校に行ってたし、塾もサボらなかったよ」
「偉いね」
「アキノは?」
「ずっと小説書いてた。もうすぐ締め切りだし」
「その割に二次新作上げてたな」
「もう読んだん?早いね」
「通知来るようにしてるから」
そんな他愛の無い報告をし合い、暗い道を歩く。
二人は灰色の壁のアパートに入った。
アキノが住んでいるそのアパートは、モダンな内装のシェアハウスだ。
「おかえり」
大家でありアキノの兄であるミオは、そんな二人に声を掛けた。
ただいま、お邪魔します、とそれぞれも挨拶をする。アキノは慣れた手付きで一階の自室のドアを開け、ユウリも躊躇無く中へ入った。
その間恋人繋ぎのままの二人を見て、ミオは微笑ましく思う。
男同士であるアキノとユウリは、恋仲であった。
点けっぱなしのディスプレイに文字が悪列されたウィンドウと一時停止された動画の映像が写っている。やべ、消し忘れた、とアキノはそれを閉じる。そういえば昨日さあ、とユウリは声を掛けた。
「大竹さんの新曲上がってたな」
「うん。さっき聴いた」
「やっぱあの人天才だよな。UTAUであの調教、同い年とは思えないよ」
「週一ってペースも凄いよね…あ、噂をすれば」
ピロリン、とSEが鳴り、アキノは自分のスマホをいじる。
「次の新曲のイラスト依頼来た」
「どんなんにしろって?」
「それは上がってからのお楽しみに」
アキノが、しい、と唇に人差し指を当てると、ユウリもこそばゆそうな笑いを浮かべた。
スマホの画面を覗き込もうと背中に張り付くので、ダメだって、とスマホの画面を黒くする。
その不意に顔が接近したので、どちらともなく唇を合わせた。軽く啄む様なキスに、二人はくすくすと笑い合う。
こんな些細なやりとりがあまりにも愛おしかった。
有島アキノは、作家だ。
小説と漫画、そのどちらも書いている。
いつもは創作活動に忙しくし、自室に篭る事が多かった。
別に人付き合いが出来ないわけでも精神を病んでいるわけでも無いが、高校は行っていない。
何故今の生活をしているかというと、学校という環境で勉強するより、自室で創作活動する方が好きだったからだ。
ただ、それだけだった。
帝国院ユウリは、この辺りでは有名な一族の少年だ。
それに見合ったエリート進学校に通っている。まだ一年生であるが、ゆくゆくは生徒会長になるのだろうと周りに言われるような生徒だった。
そんな接点の無いような二人は、恋人同士だった。
勿論、ユウリはそれを周りに隠している。アキノは隠す必要も無いが、むやみやたらに公言してはいない。
二人の出会いは、投稿サイトだった。
アキノの処女作に、ユウリが感想を送った事が発端だった。
あまり評価されなかった小説だったが、アキノが好意を覚えるのも無理は無い。
その後も、アキノが作品を上げればユウリは読破し、感想を送った。
やがて二人はメールでやりとりをする仲になり、暫くその友情は続いた。
しかし、アキノは運命を感じていた。
ユウリは、別の投稿サイトに上げていた漫画をアキノのものだと見破ったのだ。
作風と話の作りが同じだったから、とユウリは言ったが、普通媒体の違う創作の作風の合致など、わかるものでもない。
アキノがユウリに恋心を抱くのに足りる理由だった。
ユウリが会わないか、と文字で言った時、アキノは三日悩んで会う約束をした。
一度目は、友達として会った。
二度目に、ユウリはアキノに花束を渡した。
三度目にその告白を受諾し、四度目に会った時、キスをした。
そして、五度目でアキノの自室に招いた。
あの兄にその話をしたら、
「え、早」
とかなり驚かれた。
そんな関係になってから、もう半年になる。
二人は、深く愛し合っていた。
アキノとユウリは、並んで地べたに座る。
スナック菓子をつまみつつ談笑をするのは、いつだって楽しかった。
缶ビールの冷たさは喉に染みる。
しかし、ユウリはオレンジジュースを飲んでから、急に黙った。
雫がぼろぼろと落ちている。
ユウリは伏せたアメジストの眼から涙を流した。
「ユウリ」
アキノは名を呼び肩を抱く。
アキノは、こちらを向いたユウリの唇に自らの唇を重ねる事しか出来なかった。
アキノの頬に、水滴が落ちる。
上から見下ろしているアメジストの眼を指で拭った。
「…なんで、泣いてるんだ」
最近、情事の合間に一度は聞いている。
ユウリは答えなかった。
ただその涙は終わる頃には止まり、ユウリはいつもの笑顔を向ける。
だから、アキノはその快楽と身体を受け入れる事しか出来なかった。
その背中に腕を回し、胸が付く程引き寄せる。
ユウリの体温は、温かかった。
雨戸の隙間から漏れる日差しは、カーテンを介して柔らかな光になる。
いつの間にか眠っていた。朝になったのだと働かない脳が認知し、アキノは目を擦ってから辺りを見渡す。
愛する人の姿は無かった。
雨戸を開けてから、習慣でスマホを開き通知を確認する。
LINEに一言、帰ったの、と打った。
5秒後にSEが鳴り、朝練あるから。ごめん、という文章とおはようのスタンプが付いた。
アキノは溜息を吐き、頑張ってのスタンプだけ送った。
だるい身体を布団の中に隠し、二度寝をしようと目を閉じる。
「アキノ」
柔らかい声が自室の外から聞こえた。アキノは唸り声を返す。
「今日は打ち合わせでしょう。もう昼ですよ」
そう言われがばりと顔を上げた。壁の時計を見たら、短い針は10を、長い針は12を指している。
やっば!!と焦った声を漏らし、アキノは急いで布団を出た。
机の上に置きっぱなしだったユウリの飲みかけのオレンジジュースを煽り、急いで洗濯済みのシャツとズボンを身につける。
エントランスへ続くドアを開けると、燻水色の長髪を三つ編みに結んだ兄が立っていた。
「まだ来てないよね?」
「ええ、予定は12時ですからね」
アキノは胸を撫で下ろす。ミオは小さく笑った。
アキノはバランスバーをコーヒーで流し込んだ後、服を脱ぐのを面倒だと思いながらシャワーを浴びた。
胸に付いたあざを見つめる。それは、生まれつき付いた傷だった。
シャワーの後はシャツの長袖を捲らなければならない程体が熱い。
自室に戻りあらかじめ印刷しておいた原稿を手に、待ち人が来るまで共同リビングのソファに座り込んだ。
「今日は打ち合わせか」
ソファに埋まっていたアキノの顔を覗き込む目が有った。
渋緑色は頬が黒い模様で埋まっている。
さらりと流れ左目を隠す前髪の合間からも、その幾何学模様が見えた。
アキノは頷く。
「今日は仕事いいん?」
「ああ。今日は予約が無い」
元々メジロは予約制で店を開けていた。
暇だという事は、刺青を入れる人間がそんなに居ないという事でもある。
「因みにジュウジとミドリも今日は休みだ」
「じゃあ此処に居るん?」
「いや、デートに行った」
「へえ。本当仲良いよね、あの兄弟は」
「まあ兄弟と言っても恋人だからな。羨ましい事だ」
「そうだね」
アキノは苦笑する。
ユウリの事を思い出し、つい神妙な顔になってしまった。
「お前達はしないのか?デート」
「んー、たまにはしたいねえ」
そうは言っても、こんな自分と歩いている所をクラスメイトにでも見られたらややこしい事になる。それに、自室デートも良いものだ。
そう言うと、メジロも苦笑した。
玄関のチャイムが鳴る。アキノは立ち上がり玄関のドアを開けた。
「こんにちは」
其処に立っていたのは、ウェーブした黒髪で、丸眼鏡の奥に銀の眼を讃えた美青年だった。
その真っ黒な身なりから、万年喪中と自ら茶化したりしている。
しかしその編集者は別に死を想ってはいなかった。
カラスと呼ばれたりもするよ、とは言うが、アキノがそう形容するのは嫌がる。
そう呼んでいいのは一人だけだ、と恋人の事を匂わせた。
しかし、その恋人について詳しい話はしてくれない。
ただアキノの心理が読み取れると言う事は、相手も男なのだろう。
その憶測が当たっているのがわかったのは、まだ先の話だ。
冷たい日の光が満たす狭い部屋に入る。
二人はその静かな空間で、いつも打ち合わせをしていた。
アキノが茶封筒を渡すと、黒は封を開け原稿を読み出す。
いつも優しい薄ら笑みを絶やさない矢野クロスケが真剣な顔になる、この時間はいつも緊張した。
「…ふむ」
速読が特技の黒い眼は、一瞬で読みきる。
「…何か悩みがあるのかい?」
薄ら笑みを取り戻すクロスケに、アキノは、え、と漏らした。
「君が作品内で人を泣かせるなんて、ポリシーに反するんじゃないのかと思って」
言われて気付く。
良く考えると、作中で情事の生理的な涙以外に人を泣かせた事が、確かに無かった。
「…悩み、というか、」
瞬時に思い当たる。アメジストの眼から零れた泪が、頬に降り注いだ事を。
「まあ、お悩み相談は僕には出来ないけどね」
自分の事を良く理解し、人の気持ちを理解出来ないクロスケは言った。黒い爪は、とんとん、と原稿を整頓し、茶封筒に戻す。
「書き直します」
「いや、その必要は無いよ」
アキノの決心をクロスケは一刀両断する。
「締め切りに余裕が無いからね。それに君は自らの想いを反映する作風だ、これも君の吐露なんだろう」
人の心を理解出来ないと自ら言う割に、原稿に対する分析はピカイチだった。
「それより、その悩みに向き合いなさい」
漆黒に見つめられ緋色の視線を落とす。
「それ以外に不備は無いよ。いつもみたいにとても興味をそそられる話だ」
黒い編集者は褒めてくれた。
「じゃあ校訂したらいつも通り持ってくるから、明日もこの時間に」
はい、と返事をすると、クロスケは席を立った。
黒い影が灰色のアパートを離れていくのを眺めながら、アキノは煙草に火を点けた。
その毒でしかない煙が空間に充満する。狭い部屋は白くぼやけた。
アキノはその椅子と机しかない無の空間で一服した後、スマホを取り出した。
LINEを開き桜のアイコンをタップする。10秒考えてから、二行文字を打った。
直ぐにスマホが鳴る。その文字を見てから、側面を押して電源を切った。
その人と電話をすると予定したのは、20時だ。
アキノはベッドに正座して、自室の壁に掛けた針時計を見つめる。
19時59分から凝視し、一番細い針が12を指した瞬間、スマホはマリンバの音楽を鳴らした。
アキノは即受話器ボタンをタップする。
「もしもし、コハルさん」
「もしもし、こんばんはアキノ君」
柔らかい声が聞こえた。その音は、いつも海底の様に優しく全てを包み込む。
「こうやって電話をするのは久しぶりだね。あのLINEの文面からすると、あまり良くない話をするのかな?」
彼は察するのがいつも早い。そして、それを聞いてくれる。
「ちょっと、ユウリの事で」
「うん。ユウリ君についてだと思った」
ふふ、と小さな笑い声が聞こえた。
青山コハルは、昔この灰色荘の住人だった。
さらりと流れる紫のポニーテールはゴシックのスカートに合う。
その顔立ちは性別と年齢が読めなかった。
今は不動産の家の彼氏にマンションを提供してもらっている。
そんな不思議な雰囲気の男だったが、人から相談を受けやすい人間だった。
アキノも、ユウリとの関係について色々と相談した間柄だ。アキノがユウリの話をした初めての人間でもあった。
今でも、あの優しい笑みを称えているのだろうか。
変わらずに居てくれたらいいな、と淡い思いを持ったまま、アメジストの泪の話をした。
「…それは、なかなか難しい状態だね」
コハルは柄にも無く悩んでいる様だ。
「例えどんなものでも、“泣く”っていうのは異常なんだよ。でも本人は自覚が無く、その理由も分からないんでろうね」
うぅん、と唸った。
「…その状態が2ヶ月か。それはもうしっかりとした異常だね。でもいつもはからりとしてて、きっと日常生活ではそれが無い」
「…うん。俺と居る時だけだって言ってた」
「それは無意識に君には心を赦してる証拠だね」
そうなん、と問うたが、それは素直に嬉しい。
「いいね。アキノは愛されているよ」
そう言われ、顔が見えないのを良いことにほくそ笑んでしまった。
「ユウリは、自分を見つめる時間が必要だろうね」
アキノは、うん、と頷いた。
そして、コハルはアドバイスをくれた。
それは思いつきもしなかった事だったので、アキノは胸に刻む。
「話を聞いてくれてありがとう。あと、アドバイスも助かる」
なら良かった、とコハルも頷く。
「ユウリを支えてあげてね。あの子は賢い子だから、誰にもその心を見せてないんでしょう」
賢い子の悪いとこ、と付け足され、思い当たる節しかなかったから、そうなんだよね、と返した。
「アキノも、気を付けるんだよ」
優しい声はそう気遣う。
「俺が病まないのだけが取り柄なの、知ってるでしょ?」
「そうだけど、気を付けるに越した事は無いからね」
わかったよ、とアキノは返す。
「あ、ごめんもうすぐキリオさんが来る。じゃあ、そういう訳で」
「うん。本当ありがとう」
たまには灰色荘に来てね、と付け足すと、そのうちね、と返された。
じゃあね、と残し通話は切れる。
アキノはスマホの画面を暗くして、ベッドに寝そべる。
天井で光る蛍光灯を見つめた。
勿論、ぼう、とユウリの事を考えている。
そのアメジストの眼から落ちる泪の跡を、無意識になぞった。
校訂が済んだ自分の原稿を読み直し、思い耽る。
この続きを次の締め切りまでに書けるのだろうか。
スランプ、というわけではないが、今は手が動きそうになかった。
そんな中、急にスマホが鳴る。
そのマリンバの音楽に慣れないため驚いたが、その送信主の名前を見て、アキノは安心して受話器のボタンをタップした。
「アキノー!髪切らせてー!」
挨拶も無しに要件を直球で言われる。
「いいよ」
それに慣れていたアキノは、白いカーテンを開き外を見た。
眩しい光が橙の髪に反射している。自転車を片手にスマホを耳に押し付けている少年が元気に手を振っているのを見て、アキノも手を振り返した。
灰色荘の玄関に出て扉を開ける。橙色は、よっ!と挨拶をした。
「久しぶり、サズマ。また急に来たね」
少年は太陽の様な笑みを浮かべる。
「だって気になっちゃってさ!あれから3ヶ月経ってんだから」
紫色の眼は爛々としていた。じっくりと顔を見てくるので、アキノは少し居心地が悪くなる。
共同スペースで雑誌を読んでいたミオが軽く挨拶をしてからもてなしの茶を用意しにキッチンへ向かうのを見て、アキノは橙色を自室に招いた。
橙色と比喩される少年は、帝国院サズマと言った。
その苗字から分かる通り、帝国院ユウリの一つ下の弟だった。
その明るい表情に嵌め込まれたアメジストは、兄と同じ色の筈なのに、一層輝いて見える。
ユウリを介して親交を持った少年だったが、アキノにとっては恩人だ。
サズマは、スタイリストになるのが夢だった。
その夢を知る者は少ない。親にも言っていないらしかった。
サズマが持参したカットクロスを身に付け、いつまでも慣れないバリカンの音に目を瞑る。
「そういえば、ユウリにーちゃんはこっちではどうしてる?」
丁度同じ事が聞きたかったので、アキノは一瞬考え込んだ。
「元気では、ないかな」
あやふやな答えになってしまった。
「家ではどうしてる?」
アキノは聞き返す。
「んー、やっぱり元気じゃないかも」
お互いその言葉の曖昧さに納得した。
「にーちゃん最近、一瞬だけど、凄い悲しそうな顔するんだ」
「…やっぱり、最近そんな調子なんだ」
出会った頃は、そんなことは無かったから。
「ここ1ヶ月で何かあったん?」
そう訊いても、サズマは考えて唸った。
「特に何かあったわけじゃないよ。勉強とか部活に忙しいのはいつもだし、アキノの話楽しそうにするし」
「…あいつ、家族に俺の話するん…?」
「いや、うちら兄弟間でだけね。大兄貴とか親の前では言わない」
帝国院家は大所帯である事は知っていた。確かユウリは、兄が一人、サズマを入れて弟が五人居る。
「あとコノオおじさんにもね。おじさんって言っても高校生なんだけど」
「ああ、居るんだよね。仲良いけど、あんまり喋んないおじさん」
「コノオおじさんは誰に対してもあんま喋んないよ」
話が逸れてきたので、アキノは相槌を打つだけにした。
「ユウリさ、サズマとかの前でも泣く?」
なく…?とサズマは一瞬散髪をする手を止めて考え込む。
「ユウリにーちゃんが泣いてるとこなんて、見た事ないよ」
「…そうなんだ」
サズマは鏡越しにアキノを見る。
「…にーちゃん、泣くの?」
「うん…割と頻繁に」
その姿が想像出来ないのだろう。サズマは完全に手を止めた。
「…大丈夫じゃ、ないんだろうな…」
「…やっぱ、そう思うよね」
そこからは無言になってしまう。サズマが鳴らすハサミの音だけが部屋に響く。
「こんな感じでいい?」
沈黙を破ったサズマの声はいつも通りだった。
「うん。軽くなった」
「じゃあ良かった」
サズマは小さく笑う。アキノはカットクロスを外し、もう一度自分の髪型を確認した。
「いつもありがとう」
アキノは報酬のお菓子セットが入ったビニール袋をサズマに渡す。
「ううん!こちらこそ切らせてくれてありがとう」
サズマはビニール袋の中身を確認して、やった!好きなやつある、と無邪気に喜んだ。
「じゃあ、にーちゃんをよろしくな」
「うん。サズマも何か有ったらまたLINEして」
橙色は、分かった、と頷く。
サズマを見送るために部屋を出る。共同スペースの長机に、お茶と煎餅が置いてあった。
「もう帰るんですか?」
燻水色の兄がそう問うと、急だったし、とサズマは手を振る。
「またいつでもいらしてくださいね」
ミオは微笑んで言った。サズマははにかんでから頭を下げる。
「じゃあまた」
「うん。今度はちゃんと事前に連絡して来てね」
アキノが手を振ると、わかった!とサズマも手を振った。
その赤い自転車に乗り去っていく姿が見えなくなるまで、アキノは見守ってから灰色荘の中に戻った。
ユウリとの関係は続く。
毎日LINEでやりとりし、たまにアキノの部屋に招き、他愛の無い話をして、寝たりした。
ユウリは明るい。それは性根だろう。
だからその涙に、動揺するのだ。
外は暗い。
蛍光灯を、何故か見ていた。
ぐったりとした身体を抱き締め合いながら、その涙をデコルテで受け止める。
決して声は無い、ぼろぼろと落ちるだけの涙だった。
顔は見えなくても、水滴で身体が濡れるのはわかる。
いつもは情事が終わる頃には泣き止んでいるユウリが、今日は止まっていなかった。
アキノは何も言わずその背中に回した手の力を強める。
「ユウリ」
暫くして、アキノは声を掛けた。
「海、行かない?」
唐突な発言にユウリは顔を上げる。
「海?」
「うん、海。チャリで行こう」
ユウリはきょとんとした顔をし、その切り替えからか涙も止まる。
「ね、行こう」
珍しく押しの強いアキノに、ユウリは頷いた。
二人はシェアハウス共同のシャワールームで色んな体液を流し、ちゃんと頭を乾かしてから外に出る。
帰るんですか、と燻水色に問われたが、ちょっと海行ってくる、とだけ告げてさっさと自転車に乗った。
ヘルメットも付けず後ろにユウリを乗せるのは完全に交通ルール違反だ。でも、今日だけは許してもらいたかった。
温い風に、しっかりと乾かしたつもりだったが、赤い髪が冷えている気がする。
二人分の重さの自転車を10分程漕いでいたら、波音が聞こえてきた。
自転車をがらがらの駐輪場に駐めて、鍵を掛ける。
二人は恋人繋ぎをして、浜辺へと降りた。
その間は、無言だ。
浜辺を歩いていても、言葉は無かった。
波と砂を蹴る音が心地良い。でも、その生き物の死んだ匂いは少し苦手だった。
特に意思は無く、足を止める。昼とは違う波の満ち引きを眺めつつ、二人は砂の上に座った。
言葉が無いのは信頼の証だ。そんな無言の空気でも、違和感を感じないくらいの仲だった。
暫くして、ユウリは俯く。
その雫が白いTシャツを濡らした。
ほとほとと落ちる、泪。
こういう時、アキノは肩を抱く事しか出来なかった。
視線で促し、深くキスをして言葉を探す。
「なんで泣くんだ」
アキノは、ずっと繰り返している問いを口にした。
「なんでだろうな」
その答えもいつもと同じ。
「なんで、」
今日のアキノは、しつこく繰り返した。
「わかんないよ」
ユウリは眉間に皺を寄せる。
「悲しいん?」
「違う」
「辛いん?」
「多分、違う」
「でも泣く事自体は、悲しくて辛い事だろ?」
ユウリは一瞬口を閉じた。
「楽しくないわけじゃない。笑えないわけじゃない。でも…何だかわからない黒い感情が、ふっと過ぎるんだ」
いつも、ふと。
その吐露を聞いてアキノは咄嗟に返事が出来なかった。
アキノにはわからない感情だ。
今までずっと単純な心だったアキノにとって、その複雑な感情は察れなかった。
でも。
それが異常であることくらいは、察せた。
「なあユウリ」
アキノはユウリの両肩を持って向かい合わせにする。
「病院、行こう」
その一言に、ユウリはアメジストの眼を丸くした。
「何なら俺も付いていくし、調べるのが面倒なら俺が良い病院も頑張って探す。だから、
ちゃんとした人に、助けてもらって」
自分が助けるとは、無責任には言えない。
ユウリは噴き出した。
「アキノが助けてくれないのか?」
「本当はそう言えればかっこいいんだけど、俺、真剣だから自分の手では無理だって言うんだよ」
一見冷たい言葉だが、ユウリはいつもアキノの心理を読み取ってくれる。
ユウリは頬の水滴を拭う。ず、と、鼻を啜った。
「入院したら、お見舞いに来てくれる?」
「毎日行く」
「来てくれたら、キスしてくれる?」
「うん。何ならフェラもする」
「お、なら寂しくないな」
こっちは真面目に言ってるのに、ユウリは小さく笑う。
いつの間にか、泪は止まっていた。
クラクションの音がして、二人は唇を離した。
闇の中でも映える水色の軽自動車が、浜辺上の道路に止まっている。
「そろそろ帰りましょう」
運転席のミオが、そう声を掛けてきた。
通り過ぎる電灯のスピードは速い。
対向車の居ない道は、見ていても退屈だろう。
無言で窓の向こう側を眺めるユウリの黒い髪を見つめていた。
「スーツ、荷台ですよ」
ミオは優しい声で言う。アキノは頷き、ユウリと乗ってきた赤い自転車でいっぱいの荷台を調べた。
スーツ?と問う紫の眼を横目に、狭い車内で黒スーツに着替える。
外の景色が灰色荘へ向かう道と違うことにユウリは気付いた。本人には見慣れた街並みで、彼の帰路である事は察しているだろう。
アキノは今まで着ていた黒ジャージを荷台に放った。
バタン、と水色の軽自動車は鳴く。玉砂利の駐車場に降り立ったミオも女装用の喪服だった。
「どういうつもり?」
そこが帝国院家の敷地だったので、ユウリはそう問う。
アキノは緊張を隠しきれない顔で、それでも努めて優しく笑った。
ミオが門前のチャイムを鳴らす。
はい、と短く機械音の声がし、ミオはユウリ君を送り届けに来ました、と言った。
カチャリと鍵が開くのを確認し、黒スーツのアキノは門をくぐる。
頑張ってね、と声援を送るミオに頷き、ユウリの手を取ってアキノは帝国院の庭を横断した。
「ユウリ!今何時だと思って…」
叱咤しようと思った相手が知らない人間を連れていたら驚くだろう。
その初対面の紫眼も、丸くなっていた。
「ごめん、門限破って」
同じ色の眼は、レンズ越しに泳ぐ。
「…まあいいでしょう」
帝国院の玄関で、青年はそう言った。
彼が、アキノの兄であるミカギである事はわかった。ユウリが見せてくれた写真画像で知っていたからだ。
帝国院の長男であるミカギは、清潔的な水色の短髪で、ユウリやサズマと同じアメジストの眼をしている。
「初めまして、有島アキノと言います。少し、ユウリ君のお話をさせていただきたく、こうして門をくぐらせていただきました」
よそ行きの言葉でそう小さく頭を下げると、彼は嫌悪する事無く帝国院の屋敷に上がらせてくれた。
その廊下はぴかぴかに磨かれていて、広い。
とすとすとミカギの後を歩きつつ、その上品な内装をちらちら観察した。
ミカギについて行き入った部屋は、わかりやすい応接室だ。
観葉植物と向かい合わさった革のソファと、それに挟まれたローテーブルだけの部屋だった。壁に掛かっている絵は違う所で見たような気がする。
どうぞ、と言われソファにユウリと隣り合わせに座った。急に訪問したので茶が出るとは思わない。
「改めて初めまして。私はこの家の長男、帝国院ミカギと言います」
赤い半刈り上げの怪しい人間にも、ミカギは品良く対応してくれた。
「で、お話というのは?」
ミカギは笑顔であるが、不信感は隠しきれていない。
「はい。単刀直入に言わせていただきます」
アキノは赤い眼で言う。
「ユウリ君を、心療内科に受診してください」
本当に単刀直入だったから、帝国院兄弟は一瞬何も言ってこなかった。
「…貴方は、ユウリの何ですか?」
さっきよりも低いトーンで、アキノは冷や汗をかいた。
「友達です」
その嘘に、ユウリが思いきりこっちを見てくる。わかってくれるとは思うが、その紫の眼に謝罪の視線を送った。
「有島さん、とおっしゃいましたが、貴方は、鳳凰高等学院に通っているのですか?」
その名はユウリの通っている高校だ。
ミカ兄!!とユウリが怒声を上げるが、アキノはそれを制した。
「違います」
「では、何処の高校に?」
「今、学校には通っていません」
帝国院の長男の目が薄まる。
「じゃあ、お仕事を?」
「作家をしております」
官能小説で金を貰っているなどと言ったら速攻追い出されるのでぼやかしたが、アキノは誉められない現状を隠さなかった。
それは、ユウリが愛してくれた自分だからだ。
それまで偽ったら、恋人である資格は無かった。
ミカギは赤眼に込められた真剣な気持ちを察してくれたのか、そのアメジストの眼に嫌悪の色を見せない。
「ユウリ、友達は選びなさい」
ただ、突きつける様にそう言った。
ユウリは叱る様に実兄の名を呼ぶ。アキノは怒る恋人の肩を持ち制した。
「…アキノさん。今日は帰っていただけますか」
ミカギの眼は冷たい。
「これはユウリの…帝国院の問題です」
ユウリの肩は震えていた。アキノは頷き、失礼しましたと言い立ち上がる。
アキノは足早に来た道を歩いた。玄関へ続く廊下は一本道だ。
ミカギは出てこなかったが、ユウリは追ってきた。
「アキノ、ごめん」
本当に申し訳無さそうにユウリは呟く。アキノは黒革靴を履き、首を横に振った。
「ちゃんとご家族と話し合ってね」
心配を掛けない様に頑張って笑う。
「俺は、誰が何と言おうと、死ぬまで、いや、死んでも、ユウリの味方だから」
そうは言ったが、自分には何も出来ない。
そんな悔しさを汲み取ったのか、ユウリは絶望の色の顔をしていた。
「じゃあね」
最後に、そう呟き大きな玄関の戸をくぐる。
さよならとは、言えなかった。
大股で庭を突っ切り、門の前に停まっていた水色の軽自動車に乗る。
アキノは無言で車のドアを閉めた。
「よく頑張りましたね」
二人を良く知ったミオは、ただそう一言だけ言う。
アキノは、覚悟をしていた。
もう、会うことは出来ないだろう。
そう覚悟はしていたが、ユウリと過ごした日々が走馬灯の様によぎって、崩れ落ちそうだった。
自分が思っていた以上に、この心はユウリを愛している。
覚悟をしたのに、愛し続けていた。
アキノは声も出さず、闇の帷を見ながら泪を流した。
ユウリとの決別。
あの日から、アキノは抜け殻になっていた。
何か書こうとしても、それがユウリの為だった事を思い出し指が動かなかった。
幸い連載の休載は許されているが、何か書きたいという気持ちが消えたわけでもなく。
ただの自堕落な人間になってしまい、珍しく罪悪感と劣等感に苛まれていた。
気が付くとスマホを立ち上げている。
LINEを開いても、ユウリとのグループには新着が無い。
メールを開いても、変な広告しか未読になっていなかった。
今はどうしてるん、病院には行ってるん、と打ちたくもなったが、それの返信は一生来ない事を知っているから指は動かなかった。
1日、また1日と過ぎていく。
中庭のベンチで、イヤホンで聴覚を支配しぼぅ、とする日々を送っていた。
そんな静かな環境で、ユウリへの想いだけが積もっていく。
時間が経てば経つ程、この愛は大きくなっていった。
だから、名を呼ばれても反応するのに時間が掛かった。
いつの間にか赤の隣に燻水が居た。
ミオはアキノの唇に自分のを重ねる。
スプリットタンの感触は懐かしいものだったが、ユウリのとは違う。
そう感じて、直ぐに顔を背けた。
中庭に一本有る桜の木の枯れ葉が落ちる。
その茶色の絨毯を掃く事すらしていなかった。
時は、ただただ色を連れて変わる。
「五月江さん」
自分のペンネームを聞くのも久し振りで、その声に視線を移した。
柑橘類の髪と眼。
「大竹さん…?」
その顔立ちにそう呟いたが、丸眼鏡をしていないのを見て別人だと認識する。
いや、その人のペンネームが大竹早生なのは合っている。しかし彼は違う”人格“だった。
「ガリィさん」
「久し振り」
柔和で余裕すら感じられるその表情は、いつもの人格が到底しない顔だ。
隣座っても?と訊かれたので、少しベンチにスペースを作る。
「珍しいですね。何か用事ですか?」
その問いが心外だったのか、柑橘色の眼を丸くしてきた。
「だいぶ消耗してるんだね」
ガリィは優しい声で言ってくる。自分は相当酷い顔をしているのだろう。
「振るって、思ったよりダメージデカいんですね」
自嘲すると、ガリィは深く頷いた。
「きっと我もワセに振られたら、今の君みたいな顔をするんだろうね」
曲がりなりにワセという主人格を愛している彼は、今の気持ちを理解できるのかもしれない。
余談だが、ワセはガリィと恋人関係だと言っていたので、暫くは他の肉体と恋をしないだろうと思っていた。
それが彼の引きこもりに拍車をかけている。
それでも大竹早生という名で日々何か生み出しているので、忙しそうにしていた。
アキノがファンであるくらい良い物を作るので、それが実を結びますように、とクリエイター目線で彼を応援したくなる。
「で、ガリィさんで来るくらい急用なんですか」
「うん、今日じゃないと。本当はあの子も来たがってたけど、今日は精神的に駄目な日みたいだから」
「相変わらず大変ですね」
そうだね、とガリィは同じ肉体に居る人格を他人事の様に言った。
「そう、この前のMV用イラストのお礼もしたくて」
「あ、ごめんなさい、今回は駄作でした」
そんな事無いよ、とガリィは言うが、ワセはそう思ってないかもしれないと自虐的になる。
「でも暫くは他の人に頼んでください。暫く、何も描けそうにない」
アキノは額に手をやり大きく溜息を吐いた。
「本当に熱々だね、羨ましい」
「だろ?」
「ユウリが言うな」
「俺だって愛してるから色々考えて此処に居るんだぞ」
「じゃあLINEくらいくれよ」
「ああ、それは悪かった。なんだかんだ色々有ってな」
「まあいいや。こうして会えたんだし、
そこまで会話をして、異変に気付く。
アキノは2秒固まり、ばっと後ろを振り向いた。
そのアメジストの眼とかち合い、アキノは悲鳴をあげる。
ガリィの小さな笑い声が聞こえた。
「おいおい、幽霊か何かに遭遇したみたいな声出すなよ」
傷付くぞ、と苦笑するユウリを見て、アキノはぱくぱくと口を動かす。
「な、なななななんで此処に!!??」
「やっと話が纏まったからだよ」
「病院は!!??」
「うん、入院は免れた。通院はしてるけど」
「じゃあ言ってよ!!!!!!」
「それについては悪かったよ。ただ色々ごたごたしたのは本と
アキノはキャパオーバーで涙が溢れた。
もう頭が混乱し過ぎて、嗚咽を止められない。
遂に大声で泣き喚くと、ユウリはおろおろとし始めた。
「そ、そこまで泣く!?」
「だっでえ”え“え”え“!!!!!!!!」
わかった、わかったから!とユウリはベンチ越しにアキノの頭を撫でる。
そんな二人を見て、ガリィは微笑ましいと笑い続けた。
暫くしてやっと落ち着いたアキノの涙を、ベンチの前で中腰になるユウリは拭う。
「本当に、また会えるなんて思わなかった」
嬉し過ぎて消耗したアキノの表情は安堵と歓喜でぐしゃぐしゃになる。
「そうだね。でもこれからは嫌になる程顔を合わせるから」
その言葉の意味がわからず、アキノは首を傾げる。
「俺、此処に住むよ」
「えっ」
す…む…?とアキノは理解が出来なかった。
「我も入居祝いに来たんだよ」
ガリィがそう言い、やっと合点がいった。
「それは、まさか」
「うん。部屋は302号室。さっき見て来たけど、広くて良い部屋だね」
え、え、とアキノは考える。
「本当に、住むん!?」
「そうだよ」
「なんで、なんで急に!!??」
「え、ミオさんに聞いてない?」
「聞いてない!!!」
それがサプライズだと気付き、アキノは実兄の燻水に怒りを感じた。
「みいいいおおおおおお!!!!」
アキノは混乱と怒りの矛先を大家に向ける。
まあまあ、と柑橘色はそんなアキノを宥めた。
「でも、なんでわざわざこんなアパートに…」
「少し実家から離れろ、という医師の判断さ。だから暫くは世話になる」
そう、なのか…とアキノはやっと納得する。
「あ、そうそう、ミカ兄から伝言。『恋人は選ぶものではないから、貴方を否定はしません』だってさ。ちょっと不器用なんだよな、ミカ兄は」
そう、と相槌を打ったが、正直嬉しかった。こんな人間でも、認めてもらえたのだ。
「まあそういうわけで、これからも宜しくな」
ユウリは挨拶代わりのキスをしてきた。唇を啄むだけのそれに、絆される。
「おやおや、我の祝福も要らなかったかな?」
ガリィさんは控えめにそう言った。
「末長くお幸せに」
そんな言葉を掛けられたけれど、抱きしめ合う二人はもう聞いていなかった。
そんな3人の様子を、他の住人たちは隠れて見ていた。
「いやあ良かった…本当に良かった…!!」
涙もろいジュウジがそう拍手をして、ミオとミドリもうんうんと頷く。
「しかしこんなサプライズ、ミオも意地悪だな」
「驚かせる事が出来たからいいのよ」
メジロに軽い嫌味を言われてもミオは気にしなかった。
こうして、帝国院ユウリという新しい住人が増え、灰色荘は一層賑やかになった。
幸せな姿は、周りの人間にも移る。
それからユウリが、不意にアメジストの泪を流す事は無くなった。
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