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宙に、片足を出した。
体を前に進めようとする。
ふわり、とした感覚。
ああ、俺は、この現世から逃げるのだ。
そう、思って目を閉じた。
この世に、もう少しだけ、
がくん、と何かに引っ掛かる。
首が動いた。
落下感が無く、驚いて目を開ける。
腕が、胸元に巻きつかれていた。
咄嗟に横を向き、黒い眼と目が合った。
「やっと見つけた」
その黒はそう言う。
「…何だ、お前は」
俺がそう呟くと、その黒は笑った。
「僕はカラスだった生き物だ」
“生き物”、とその男は表現する。
「そして、君は猫だった」
その発言に俺は、は?と漏らす。
俺はただの人間だ。
今日まで中学生だった、人間。
「こんな所で話すのも何だから。こっちにおいでよ」
「うるせえ、腕を放せ」
「放したら君は落ちてしまう」
「いいんだよ、別に」
「良くないよ。僕は君と話がしたいんだから」
自殺を止められているが、どこか止められていない気がする。
その場違いの、再会を心から喜ぶ笑顔に根負け、俺は柵に手をやった。
手を取られ、コンクリートの上に立つ。
そして、そのカラスと名乗る男を改めて見た。
黒く艶掛かったうねる髪を一つに纏め前に垂らし、長袖のシャツもスラックスも黒い。そして、その眼も深闇の様に黒く、しかし光が宿っている。
確かにカラスという名に相応しい、真っ黒な姿だった。
しかし肌は新雪のように白く、良く見れば全てのバランスが良い。
正しく、美青年だった。
「僕は、ずっと君に会いたかったんだ」
風が吹き、その闇の髪を遊ばせる。
「やっと親が死んでね、こうやって会いに来れた」
カラスはさらりとそんな事を言う。
「…それはご愁傷様」
俺は定期文しか言えなかった。
「君もそうだろう。やっと、親という輪廻根底のしがらみが無くなった」
しがらみ?と俺は呟いた。
「…俺にとって、親はしがらみじゃなかった」
何も無い俺は、手の掛かる親の世話をするくらいしか出来なかったから。
「俺にとって親は、親の世話をするのは、生存理由だった」
何も与えられなかったから、求められた事をするしかなかった。
「おや?それは“束縛”だろう?」
「お前に何がわかる。俺はその“束縛”が無ければ生きていい人間じゃねえんだ」
産まれた時から、疎まれていた。
それでも利用価値があるから、生かされていただけだ。
生かされる為だけに生きてきた。
その生かされる理由すら失ったのだ。
そう吐露すると、真黒は顎を持ち、ふむ、と言った。
「いやあ、本当に都合が良い」
は?と俺は再度漏らす。
「僕が君を“束縛”していい、って事だね?」
「…何を…?」
「僕と一緒に生活してくれないか?」
カラスと猫だった時の、あの頃の様に。
その鳥はそう言った。
俺は狼狽した。
それはそうだ。初対面で言う提案では無い。
しかし、何故かその男との生活を想像してしまっていた。
「お互いの事を、少し話さないかい」
俺が答える前に、男は座り込んだ。
その押しの強さと無神経さに、なんとなく負けた気がして俺も胡座をかく。
男は兎に角喋った。
自分の出身地、生い立ち、ちょっとした思い出、鴉という生き物だった時の話。
聞き流していたが、鴉だった頃の話の晴明さに、疑問が浮かんだ。
「なんで、前世を覚えているんだ?」
ああ、とカラスはついでの様に言う。
「僕が魔女の使い魔だったからさ」
それは、冗談なのだろうか。
変わらない眼の色に、それが掴み取れなかった。
「魔女が鴉を使うのはよく有る話だと思うけれど?」
「…まあ、そういうイメージだもんな」
どこまでが本当なのだろうか。
でも、本当かもしれないとも思った。
彼は今、雑誌編集部の仕事をしているのだという。
その情報だけは頭に入った。
「ねえ、ナアくん、
その男がそう俺を呼んだ瞬間、脳裏にフラッシュバックした。
酷い頭痛と共にその映像が浮かび、俺は頭を抱える。
「…ガクシャ…?」
俺がその名を呟くと、男はそれまで以上に嬉しそうな顔をした。
「僕の事、思い出してくれたんだね」
そう言われても、俺は素直に喜べなかった。
だって、その映像は、
「…俺は、ガクシャの前で死んだのか」
カラスは微笑んで頷いた。
「君は、車に轢かれて死んだよ」
それは赤い車だった。路地裏から出た瞬間に、跳ね飛ばされたのだ。
車の急ブレーキ音。早朝の、夏にしてはまだ涼しい空気の中で。
「僕は見ていたよ」
男は胸ポケットから、小さな物を差し出した。
「あの時僕が持ち去った、君の記憶を返すよ」
それは小さな牙だった。
俺は震える手でそれを摘む。
すると、色んな記憶が流れ込んできた。
それは、ナアと言う名の仔猫だった時の記憶。
路地裏で残飯を漁っていた日々。決して豊かではなかったが、それなりに楽しかった。
何故なら、
ガクシャという鴉が、一緒に居てくれたから。
自分の頬に滴が流れたのを、白い手が拭ってくれて知った。
「…俺は、お前と、」
その翼が七色に輝くのを、俺は知っている。
その脚が細いのも、肉より野菜が好きなのも、嘴が細いから、ハシボソガラスという種である事も、
全て、思い出した。
そして、それも思い出した。
猫である自分は、生きたくて、生きたくなかった事も。
カラスは俺を抱き締めた。
肩が涙で濡れるのがわかる。
「大丈夫。君は幸せになれるよ」
だから、この世に、もう少しだけ。
カラスはそう呟いて俺の背中を優しく叩いた。
「ガクシャ、がくしゃあ、」
俺は泣いた。
みっともなく、大泣きした。
男はそれを受け止めてくれた。
優しく、その翼で包み込む様に。
「俺は、俺は、
いつまで、生きればいい?」
「…そうだね、幸せだと思えるまでだね」
ゆったりとした声が、耳元でする。
「ガクシャは、俺を殺してくれるのか」
それは本心だった。
死にたくて、でも、生きたくて。
どうすればいいか、もうわからなかった。
「ああ。いつか君を殺そう」
だから、それまで一緒に生きてくれないか。
ガクシャはそう言った。
「だったら、俺は生きるよ」
もう少しだけ、生きるよ。
だから、いつか。
そのボロアパートの部屋に入った時、これは頑張らなければ、と思った。
「取り敢えず、何か食うもん買いに行ってくる」
少ない荷物を畳の上に置き、冷蔵庫の中を見た俺はそう言った。
「ああ、頼むよ」
「ガクシャはアレルギーとかあるか?」
「無いよ。牛乳もナッツも大丈夫」
「ん。じゃあコンビニ行ってくるわ」
そう言って玄関の扉を閉める。
俺はカンカンと階段を降り、空を見上げた。
空は、あの時見たものと同じ色をしていた。
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