45人が本棚に入れています
本棚に追加
伍:荒び
走り始めてからそれなりに時間が経ったと思う。東京からは離れたのか、段々と車の数が少なくなってきた。高速道路から下りて下道をしばらく走っていると、随分前に見失ったはずの車が遠くに見える。
どうやら、彼らは山の中へ入っていくようだった。
バレないように、山の入り口から離れた位置で私たちはタクシーから降りた。空を見上げたけれど、まだ陽は高い。山の中へ入って細いハイキングコースをゆっくりと上っていくことにした。
タクシーを降りてからずっと聞こえている鳥の鳴き声は、山の中へ入ると一層大きくなった。ホウホウと力強く鳴いている鳥は、私たちを追い返したいのだろうか。なんだか、怒っているような気がする。
斑はそんなことは気に留めていないのか、どんどん山道を進んでいく。
「お嬢様、ここで成井家の怪物が使う秘術を一つ授けやしょう。さあ、これを口に咥えて」
彼が差し出してきたのは怪しい乾いた布だった。どうやら怪物の毛を針で突き刺しながら編んで作った布で、これを咥えていると人間から気配を感じられにくくなるらしい。
平然とした顔をしているので、嘘ではないらしいけれど……なんだか気が進まない。渋々ながらゴワゴワとする布を口元に巻いて、唇で軽く食みながら山の中を進んでいく。
「……音がする」
しばらく歩いていると、何かを打ち付けるような音がどこかから聞こえてきた。
耳に筒状にした掌を当てて音の出所を探っていた斑が、私の手を引いて歩いて河原の方へ向かう。崖の上から下を見下ろしてみると、大きな石がゴロゴロとしている場所で、虚ろな表情をした人たちが何かに石を叩き付けている。鳥の声はどんどん大きくなっていて、斑の声も聞きにくいのにカンカンと石の音はやけに鮮明に聞こえて嫌な気持ちになる。
身を乗り出して目を凝らすと、河原にいる人達が赤黒い肉塊に石を振り下ろしていることがわかった。ええと……アレは……。
「ひ」
思わず声を漏らす。アレは……ヒトだ。
小さな肉塊もあるけれど、もう赤ちゃんと言っても良い大きさのものもある。叫んでしまいたくなるのを必死で耐えて、斑の服を掴もうとして手が空振りをする。
慌てて周りを見渡すと、随分先に斑の背中がある。足音を立てないようにしながら駆けていくと、少し拓けた場所に小さな小屋があるのが見えた。
小屋の前では、走り去った車を見送っているかのように、一人の女性が立っている。明るい褐色の髪、ふくよかな体……どこかでみたことがある。
「セシーリアさん」
普段、彼女が浮かべている朗らかな表情はどこにもなかった。血走った目をして微笑んでいる異常な様子だったから気がつけなかった。気がつきたくなかった。
名前を呼ぶと同時に、咥えていた御守が落ちて靴に当たった。しまったと思ったときには、もうセシーリアさんの限界まで見開かれた目がこちらを見つめていた。
「成井さん……こンなところデあいましたネ」
セシーリアさんが言葉を放つと同時に酷い腐敗臭がして、胃の中身がせりあがってくる。
その場に胃の内容物を吐き出してよろめく私の体を、後退りした斑が支える。
「お嬢様、静様を呼んじまった方がいいぜ?」
こんなところで呼んでなるものか。私が次期当主代理として場を収めてから、兄様を呼んでゆっくり丸一日一緒にいて思い出を作るんだから。
首を横に振ると、斑は珍しく困ったような顔をしてから前を向いた。
「Emil,Kom med meg for a drepe fienden」
愛おしそうにセシーリアさんが自分の隣に話しかけている。ぐわっと景色が歪んで、そこから出てきたのは、肥大化した赤ちゃんの頭が付いている梟の化け物だった。
胸から突き出すようにして赤黒い赤ちゃんの腕と足が生えていて、もぞもぞと動いている。
「セシーリアさん……失った子供の代わりに地域の子を愛していたんじゃ」
「わたし、utburdになたEmilのトモダチ、つくりたかったダけヨ」
異形の化け物の頬に手を当ててうっとりとした表情を浮かべたセシーリアさんに呼応するように、化け物は口を開いた。
その口からはホウホウホウホウと鼓膜が破れるくらい大きな鳥の鳴き声が発せられる。
私も斑も思わず耳を塞ぐと、辺りの木々が大きく揺れた。黒い影が日差しを遮ったので上を見てみると、そこには数え切れない程の梟が羽ばたいている。
梟たちは、私たちを目がけて急降下してきた。
「痛……」
斑に突き飛ばされて我に返る。斑に群がっている梟たちが、尻餅を着いた私の方を見た。
何羽かの梟を斑は叩き落としたけれど、化け梟から伸びた青黒い舌に足を絡め取られて引きずられていく。
私も手で必死に梟を払っていたけれど、すぅっと羽音もさせずに飛んでいた一羽の梟が私の胸元に爪を立てた。小さくてひしゃげた赤ちゃんの頭が生えた梟は、胸から突き出した赤黒い一本の腕をこちらに向かって懸命に伸ばしてくる。
顔を逸らして避けようと必死になっていると、二羽、三羽と他の梟たちも私目がけて飛んでくるのが目に入る。嫌だ。助けてよ。お兄ちゃん。
「これはオレの器じゃないからいーけどさぁ……」
そうだ。兄様を取り戻すために私はここにいる。
斑の声で我に返って前を見ると、舌に手足を絡み取られて身動きの出来ない斑の顔を化け物の赤黒い手が掴もうとしていた。
兄様の体が壊れちゃう。
喉が張り付いて閉じたみたいに声が出てこない。パクパクと陸に揚げられた魚みたいに必死になりながら、私は懸命に声を出した。
「兄様……!兄様を戻して!」
青白い閃光が辺りを照らす。ホウホウというけたたましい梟の鳴き声がギャという悲鳴に変わった。
「なるほど……Utburd。日本ではたたりもっけという妖だな」
舌を切られて青い血をボタボタと垂らしている化け梟は、胸元の羽根を膨らませて羽根の付け根を浮かしている。セシーリアさんは、目を剥いて呪いの言葉を吐きながら私と斑を睨み付けた。
いや、斑じゃない。アレは兄様だ……。だって、瞳は綺麗な鳶色だし、足下には白い毛皮に黒い斑模様のフェレットみたいな怪物……本来の姿に戻った斑が毛を逆立てて唸っているもの。
「怪異の名は捉えた。斑、喰らってやれ」
「いいよぉ」
兄の冷たい声に対して、軽薄そうなお調子者の斑の声が応答する。本来の姿に戻った斑は小さな体にも拘わらず怯むこと無く化け物に向かって駆けていく。
化け梟の前に立ちはだかったセシーリアさんの肩に前脚を当てて、兄様の方へ放り投げた斑は、一瞬で雄牛くらいの大きさになって大きな口で化け梟の頭を一口でかみちぎった。
唖然としてへたり込むセシーリアさんの前に立った兄様は、彼女の頭に優しく手を当てる。すると、セシーリアさんはゆっくりと目を閉じて青ざめた顔色のまま地面に横たわった。
「たたりもっけは棄てられた遺体を供養すれば消える。警察に通報するだけでいいだろう」
「兄様……見ていてくれたのですね。沙羅は、がんばれましたか?」
兄様だ。立ち上がって兄様に抱きつこうと両腕を伸ばす。でも、兄様の目は私を見ていない。なんで?
私はがんばったのに?
「静、可愛い妹にハグの一つもしてやらねーのか?」
静……と斑は呼んだ。自らの主人のことを? さっきもそう呼んでいた気がする。
どこかおかしい。でも、なんで? 身を挺しておじいちゃんを守って、同業者の手によって暴走させられた斑を自分の体に封印をして……その代わりに体の中で呪いを解くために祈り続けなきゃいけない……だから、体を斑が操っている。
好き放題出来るのに、斑は自分を殺さなかった兄様に恩を感じて、成井家の者から得る対価を食べて自分を蝕む呪いを早く浄化しようとしてるはずなのに。
「妹の世話、ご苦労だった」
斑が長い尾を左右にゆっくり振っている。兄様は振り向いて私のことをやっと見てくれた。
きっと説明をしてくれるはず。だから、兄様、早く教えて。
数歩、前に進む。怖くて仕方が無いけれど。
兄様はゆっくりと腕を持ち上げた。でも、その手は私を抱きしめるんじゃ無くて、私の額にそっと当てられる。
「沙羅、さよならだ」
柔らかく微笑む兄様の口から聞きたくない言葉が聞こえる。
「斑」
「あいよ」
ゆっくりと突き飛ばされて、尻餅を着いた私に向かって斑が駆け寄ってくる。
「にい……さま」
しゃがんだ兄様が私と目を合わせてくれた。
きっと冗談だって言ってくれる。そう思って、泣き出したい気持ちを抑えて私は笑顔を作る。
「一番大切なモノを、対価にしたのはお前自身だろう?」
そう言ってすごく優しく微笑んでくれた兄様の横から、にゅっと斑が顔を覗かせた。
「お嬢様、あんたで最後なんだ」
「残りは分家の連中……か」
「ああ……でもまあ、怖くねえなあ」
長い濡れ羽色の髪をかきあげながら、兄様が立ち上がった。風がどうっという音を立てて吹き抜けて、絹のように細い髪が靡く。
「待って……」
もう少しだけ、兄様を見ていさせて。大好きな静兄様……。
手を伸ばしたけれど、それはぺしりと斑の前脚でそっと叩き落とされた。
斑の大きく開いた口が目の前に迫る。並んだ鋭い牙とぬらぬらとした赤い舌。生臭い吐息。
そっか……一番大切なモノ……。兄様との……。
最初のコメントを投稿しよう!