0人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ
ガタンゴトン…ガタンゴトン…そんな丁寧音ではなく、時折、砂利の上を走るかのような異音と不快な揺れを感じながら、一言もアナウンスのない不気味な列車に私は乗っていた。
古びた空調からは生暖かい風が吹き、祖母の家にあるエアコンのような匂いがする。板張りの床はワックスをかけたような光沢があり、暖色の室内灯の明かりが反射していた。
暗闇を背に、自分の顔が薄っすらと映る窓の外の景色は見たことのない田園が広がっていた。かと思いきや、次の駅では急にビルに囲まれた都会に出ることも、真っ暗闇の中月明かりがキラキラと光る海が見えることもあった。そこから一人、また一人と乗客が乗っては降りてを繰り返す。
なぜか私は、そこでは降りようとは思わなかった。
私が乗車した駅の名前は覚えていない。夜、制服姿のまま、行くアテもなくて誰もいない夜道をふらふらと歩いていたら古ぼけた駅を見つけた。
何もなかったはずなのに、突然現れたようなその駅は暖かな光を放っていて、光に誘われる羽虫のように私はゆらゆらと歩み寄った。
目的地も決めずどこか遠くへ行きたかった。ICカードが使えないような古い改札は無人で、声をかけてみるが誰もいない。そうしているうちに列車が来てしまったので、とりあえず乗り込むことにした。
車両には私を含め5人ほど、隣の車両にも同じくらいの数の人が乗っていた。皆、何かに悩むように俯いたり、頭を抱えたりしていた。私と同じように、不思議な駅から乗ってきたのであれば、そうなるのも無理はないだろう。
数駅過ぎる毎に降りようかなと立ち上がるが、なかなか勇気が出ず、再び座ってしまう。気づいたら乗車駅から十数駅ほど列車は走っていた。この列車がどこへ向かっているのかが気になりスマホのマップアプリを開いた。帰り道だけは調べておきたかったのだが…圏外だ。車両内を見渡しても路線図もなければ車内広告もない。
外を見るがトンネル内を通過しているわけでもなく、電波が届かなさそうな山道でもない。普通の街中を列車は走っている。
ポケットにスマホを仕舞い、再び外をぼうっと眺めた。私はどこへ辿り着くのだろうか。
夜もふけてきて、外に灯る家々の明かりが寂しくなり、闇が一層深くなった。今日はたくさん怒って、たくさん泣いて、たくさん叫んだから、とても疲れてだんだんと眠くなってきてしまった。
「…お嬢さん、眠ってしまってはだめですよ?降りそびれてしまいますからね」
いつの間にか老紳士が私の前に立っており、肩を優しく叩いた。
老紳士は古ぼけたボストンバッグを足元に置いており、ずいぶんと優しそうな目をしている。白いお髭が目立つ上品な人物だった。
「あぁ…すみません、ありがとうございます」
涎が出てないか無意識に袖で口元を抑える。
どういたしまして、と言わずにニコリと微笑むと、隣に座り、向かいの窓の向こう側を遠い目をして見つめる。
あ、そのまま座るんだ…と思いつつも、少しだけ老紳士との間隔をあけて深く腰掛けた。
「時にお嬢さん、こんな時間にどうしてこの列車に乗っているんです?」
物腰柔らかな老紳士の問い掛けに、不思議と無視するという選択肢は浮かばなかった。
「ええと…、妹と喧嘩しちゃって…」
「はははっ、青春ですねぇ。羨ましいです」
何も知らないくせに、と内心思いながらも、苦笑いで返す。
この老紳士は随分と落ち着いた様子なので、この列車がどこへ行くのか聞いてみることにした。
「どこにも向かってませんよ。これは環状線ですからね」
「じゃあ、また乗った駅に戻れるんですね」
「えぇ、降りれますよ、きっとね」
老紳士の言葉に違和感を覚えた。「きっと」なんて言い回し、帰れない可能性を示唆しているようだったし、降りれるかどうかなんて聞いていない。だけど、不思議と恐怖は感じなかった。
列車はトンネルの中に入り、車内は薄暗くなる。窓に映る私たちは闇に飲まれ、老紳士の曖昧な言葉はそのまますうっとその中に消えていった。
トンネルを抜けると、列車は止まった。なぜかこの駅では降りてもいい気がしたけれど、妹のことが頭をよぎり、立ち上がろうとし踏ん張った足の力が抜け再び着座してしまった。
そして再び列車は走り出す。
そんな私を横目で見て老紳士は問いかける。
「…降りないのですか?」
「なんか、まだいいかなって思って…」
「…この列車はぐるぐる回りますが、お嬢さんが降りたい駅が次にいつ停まるかわからないですよ?」
「どういうことですか?」
「この列車は感情(かんじょう)線(せん)。後悔、悲しみ、喜び、期待、絶望、信頼、愛情、憐れみ、焦り。人の感情の数だけ駅があるのです。人が乗り降りするほど、あなたの望む駅は遠くなるかもしれません」
「…おじいさんはいったい何者なんですか?」
「お節介じいさん、といったところでしょうか」
すると老紳士は微笑んでボストンバッグのチャックをゆっくりと開け、中からいくつもの手紙を取り出した。
「これは、妻が服役中の私に送ってくれた手紙です」
「すごい数ですね」
何十通もの手紙は全部が色あせており、長い年月の経過を感じさせる。
「……私、息子を殺してしまったんです、お嬢さんが生まれるよりもずっと前に。過失だったとはいえ、数年間刑務所に入り、来る日も来る日も妻は励ましや近況報告、些細なことも全部手紙に書いて送ってくれました。
妻は私を許してくれていましたが、私は私を許せていなかった。だから出所した後、どんな顔をして妻の元へ帰ればいいのか、どんな言葉をかけたらいいか、わからなくなりました。荷物を持ったまま彷徨っていたら、この列車に乗っていたのです」
「…どうして私にその話をしてくれたんですか?」
「お嬢さん、何度も降りようとして、その度に失敗してたでしょう?このままじゃ私のように何十年もこの列車に閉じ込められるかもと思って、声をかけました」
「何十年って…じゃあ奥さんはどうしたんですか?」
「他界しました。偶然、私の知り合いがこの列車に乗った際に聞いたんです。もっと早く決断すべきだったと、今でも思うのです。そして妻がいなくなって、私は降りる駅を見失ってしまいました…」
老紳士は手紙の束をじっと見つめて、ボストンバッグに戻していった。
きっと今も病室で妹は眠っていて、意識は戻っていない。
双子の妹と大喧嘩をした。理由は受験のストレスだった。推薦で受験を終えた私と、受験勉強に励む妹との温度差が招いた、些細なトラブルだった。明日には仲直りするはずだったのに、ごめんなさいも言えぬまま、妹は深い眠りについた。
交通事故だった。飲酒運転の軽自動車が、帰宅中の妹に直撃した。事故現場には参考書が落ちており、直前まで車に気づかなかったのだろう。
家族皆で病院に駆けつけたが、妹が起きる様子はなかった。父と母は病室で容体をじっと見ている。私は、胸を締め付けるような罪悪感に耐えられず、外へ飛び出した。
このまま列車を降りなかったら、どうなるのだろう。
不意に恐怖が私を襲った。この列車から出られないことよりも、妹に「ごめんね」も、「おかえり」も言えずに目の前から去ってしまうことが怖かった。老紳士の話がその恐怖心をさらに増長させる。
もし、妹が目を覚ましたとき、そこに私がいなかったらどう思うだろうか。
妹は私がいなくなってせいせいする?喧嘩する相手がいなくなって喜ぶ?プリン半分コしなくてよくなる?二人で同じ服を着まわさなくてよくなる?
なんか喜びそうなのが腹立たしい。
受験で忙しいと思ったから、以前から食べたがってた駅前のクレープを買ってきたのに、「お姉ちゃんばっか遊んでてズルい」だなんて、なぜか私がキレられるし。
勉強の息抜きにと、おススメの映画を教えてやっただけなのに不機嫌になるし。
私だって文句が言いたい。全部妹のためにやっているのに。
…でもそれは、生きてるうちにしかできない。妹が死んだら、私は誰に謝ればいい?文句を言えばいい?妹が目を覚まさないと、私の感情は行き場を失う。だからこんな列車に乗る羽目になったんだ。
きっと妹は文句を言い返してくる。けれど、それも全部受け止めたい。
…今は怒った声すら愛おしい。
ただの姉妹喧嘩に過ぎないのだから、さっさと仲直りしよう。
今から戻るから、早く目を覚ましてよ。
「おじいさん、ありがとう。私、次の駅で降ります」
席を立ちあがり、ドアの前に立った。
外を流れる景色は止まる気配がなく、速度は衰えない。
列車は暗いトンネルの中に入る。なんとなくだけど、もうすぐこの列車は止まる気がする。そしてそこが私の降りるべき駅だ。
老紳士はニコリと笑って、手を振ってくれた。
「さよなら、おじいさん」
トンネルを抜けると、列車はゆっくり失速し、やがて止まった。
アナウンスはなく、ゆっくりと扉が開く。
列車から一歩踏み出すと、鼻の奥をツンとさす冷気が身を包んだ。しんと静まり返って、深夜二時、そこは妹がいる病院の目の前で、振り返るとただの道路になっていた。
夢でも見ていたようで、ぼーっとしていると、スマホに着信が何件も一気に入った。ずっと圏外で溜まっていた連絡が一気に流れ込んできたのだろか。慌ててスマホを取り出すと、ポケットからひらりと小さな紙切れが落ちた。
『後悔の駅』
受け取った記憶のない切符だが、確かに、私はその駅から長い列車の旅をしていた。
では、私が降りた駅名は何だったのだろう。また見忘れてしまった…。
母から着信があった。たった今、妹の意識が戻ったそうだ。
私は切符をポケットに仕舞い、大慌てで病室へ向かった。
ポケットの中で、じわりと切符の文字が変わる。
『後悔の駅』発『仲直りの駅』着、と。
最初のコメントを投稿しよう!