雨音

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 今年は降雪も降雨も少なく、大地が干上がってしまうのではないかと心配するほど晴れ続きの心地良い日和ばかりだった。  なのに、3日ほど前に梅雨入りしてからは太陽は一切姿を現さず一変してしまった。  蓄えていたものをひっくり返した、或いは溢れたように、大地に雨を降り注ぐ日が欠けることなく続いている。  イヤホンを忘れてしまった今日は、無機質なアナウンスと降り続ける雨音がBGMとなっていた。  雨粒はホームの屋根を、線路内のごろごろとした石を、そして鋼鉄のレールに降って叩きつけた。  それぞれの音を立てて、一つの雨の音となる。  ——まもなく、1番線に列車が到着します。黄色の線より下がってお待ち下さい。  ふと、向かいのホームでスマホを弄りながら電車を待つサラリーマンの男に目がいった。  もう正午になる時刻だ。大学生の自分のような若者ならこの時間に駅にいてもおかしくないが、30代半ばほどのサラリーマンがこれから電車に乗って、営業回りだろうか。  雨の中お疲れ様です、と思いかけて気づく。  サラリーマンの後ろに女が立っていた。  白のワンピースに赤い模様が映える。距離があるのでわからないが、花柄か花火柄だろう。  サラリーマンの腕に自身の腕を絡ませ、話しかけていた。 (サボりかな?)  営業回り中の休憩、もしくは営業だからこそできる午前のサボり。  どちらでもいいが、女が話しかけ続けているのにサラリーマンは返事をしていないように見える。  相槌を打っているかもしれないが、ここからじゃ雨音もあり聞こえない。  ケンカでもしたのかなぁ、となんの気無しに眺めていたら、女と目が合った。 (やべっ)  さりげなく、持っていたスマホに目を落として逸らす。  ジロジロと見過ぎた。この気まずさは自業自得だ。  ——まもなく、2番線に列車が到着します。黄色の線より下がって……。  アナウンスが終わるより先に、ホームに軽快なメロディが流れて1番線に電車が入ってくることを教えた。  ごとん、ごとん、と重たい音を緩やかに立てながら、電車はやがて自分の前に止まって扉を開けた。  ほんの少しだけ雨に濡れて、すかすかに空いている座席に適当に座る。  窓の外を見ると、サラリーマンの前にも電車がやってきていた。 (……あれ)  小さな違和感を感じたが、動き出した電車によってそれを確認することはできなかった。  気のせいかもしれないし、自分には関係ないし。  特に気に留めることなく、冷房が効いてひんやりとした電車に揺られるとやがて睡魔がやってきた。  ❇︎❇︎❇︎❇︎❇︎  それから数日、雨は一度もやむことなく降り続けている。  いつも通り大学に行くためホームで電車を待つ。時間潰しは、イヤホンから流れる流行りの音楽たち。  向かいのホームにサラリーマンが立っていた。  ハッとして見たが件のサラリーマンではなかった。  やっぱり仕事でこの辺りに来ていたんだろうと結論づけて、暴れ出した心臓を落ち着かせる。 (あいつがあんなこと言うから……)  心の中で毒づきながら、気を紛らわすためにアップテンポの曲を再生した。  ⚫︎⚫︎⚫︎  昨日の通学途中、乗り換えのために電車を降りて待っていると見慣れた顔を見つけた。 「おー、偶然」  大学のサークル仲間だった。  声をかけると、友人は「あれっ?」という反応をして周りを見回した。 「なに?」 「いや、何って。彼女と一緒じゃなかったの?」 「彼女?」 「俺、快速に乗ってきたからさ。通過した駅にお前を見つけたんだよ。彼女と腕組んでたろ?」 「はぁ?」  首を傾げると、友人も首を傾げた。  見間違いじゃないかと問うと、見間違いじゃないと答えた。 「白いワンピースの子だって。別に隠さなくていいよ」  ⚫︎⚫︎⚫︎  思い出しただけで鳥肌が立った。  結局は、気のせいだと言いくるめてその話題を終えたのだが。  不満げな友人に、不安を煽られるほどには恐怖を感じていた。 (いや、気のせい。気のせいだろ)  同じホームには自分以外には誰もいない。向かいのホームにはサラリーマンが1人だけ。  たった1人でさえ、同じ空間にいてくれることに安堵する。  ——まもなく、1番線に列車が参ります。危険ですので、黄色の線の内側にお下がりください。  あれ、と思った。  時刻表にはこの時間の発着はないのだ。遅延でもしていたのだろうか?  登録しているアプリで遅延を確認していると、電車がゆっくりと入ってきて止まった。  扉は開くことなく、電車の中では吊革につかまって立っている人がちらほら。ほどほどに混んだ快速列車だ。  どうやら、先の信号待ちで停車したらしい。  ブブ、とスマホが振動した。  見ると、LINEの通知だった。送り主は昨日の友人だ。 『前の車両に乗ってる。やっぱり彼女いるんじゃん』  ハッとして振り返った。  しかし、誰もいるはずがない。 『いないって言ってるだろ』 『嘘だ。一緒にいるじゃん』 『嘘じゃない。俺の他に誰もいない』  そこからLINEの返事がないと思ったら、目の前の車両の窓越しに友人が現れた。  わざわざ移動してきたらしい。 『あれ、彼女どこ行った? 隠した?』 『だから、いないんだって』  窓越しに友人を睨むと、友人は訳がわからないというように頭をかいた。 『どういうこと? 白いワンピースの子、たしかにいたはずなのに。お前に腕組んで話しかけてるの、はっきりと見たよ』  背中がぞわぞわとした。  振り返りたいけど振り返られない。何もいない空間なのに、やけに気になって仕方ない。  友人に向けた自分の顔は、おそらく強張っていただろう。  友人は戸惑って見ていたが、あっ、と何かに気づいた。 『イヤホン……』  声は聞こえないが、そう呟いたのがわかった。  ❇︎❇︎❇︎❇︎❇︎  白いワンピースの女に腕を組まれ、話しかけられていたサラリーマン。  気に留めていなかったあの時に感じた小さな違和感が、今になってよみがえった。  違和感の正体はなんだろうと、考える必要はなかった。  あの時、自分はたしかにはっきりと捉えていたのだ。気にしないように目を逸らしていただけだ。 (あのサラリーマンも、イヤホンをしていた)  女がいくら話しかけても聞こえるはずがない。  聞こえるはずがないのに話しかけ続ける女。  その光景は異様だった。とにかく不気味だった。  関わりたくないと、本能がそういっていた。  ⚫︎⚫︎⚫︎  友人の乗った電車が動き出す。  友人と自分の間に答えは生まれなかった。  状況を飲み込みきれずに困惑した友人が、だんだんと遠ざかっていく。  ——ブツッ。  イヤホンが断線し、音楽が途切れた。  線をさし直しても音楽のアプリを起動し直しても、無音のままだった。  イヤホンごしに雨音がくぐもって聞こえる。  その中に、微かに聞こえるのは……女の声だ。  ——……?  ——……?  問いかけるように、何かを呟いている。  それを聞かないように、音の流れないイヤホンを耳栓がわりにつけ続けた。  さらにその上を手のひらで包み、何も聞かないようにした。  何も見ないように目蓋も固く閉じた。  そうまでしても聞こえるのは、止むことのない雨音だった。  そして、自分が乗る電車の到着アナウンスだ。  ——まもなく、1番線に列車が到着します。黄色の線カラ飛び出シテお待チ下さイ。 (えっ?)  目蓋を開けて顔をあげるとイヤホンの線が引っかかって耳から抜けた。  あっ、と思いイヤホンを手繰り寄せようとするが引っかかっている。  つい、イヤホンの線を辿って見た。  土気色の女の手が線を掴んでいた。  そして、女が覗き込んでくる。  ばさばさに乱れた髪の間から、焦点の合ってない瞳が自分を捉えた。 「聞こエタ?」  どん、と体を押されて線路内に落ちる。  女はケタケタと笑い、ゆらゆらと揺れながら首を振り回していた。髪がさらに乱れ、たまに覗く瞳はぐるんぐるんと回っていた。 「ひっ……!!」  腰を抜かし動けず、ただその女の狂気じみた動きから目が離せなかった。  女はケタケタケタケタと笑い続け、やがてぴたりと止まる。  土気色の口が微かに動き、とめどなく呟き始める。 「間もナク列車ガ到着しまス。黄色ノ線カラ飛び出シテお待ちクダサイ。間もナク列車が到着シマス。黄色の線カラ飛ビ出してお待チクダサイ」  そして女はふらふらとホームから飛び降り、ドシャッと鈍い音がした。 「血、血、チ、血、ち、血、チ、チ、血、チ」  白いワンピースを見下ろした女は虚に繰り返した。  女の腕はおかしな方向に曲がり、立ち上がろうとしては体勢を崩し鈍い音を立てて地面に崩れていた。 「聞コエる? 聞コエル?」  女はずりずりと這いずり、逃げることのできない自分の足を土気色の手で掴んだ。  女の力とは思えないほどに強く。  そして、繰り返す。 「聞こえル? 聞こエル?」  何が、というのはわかっていた。  先程から手のひらで感じている振動がだんだんと大きくなってきた。  振動だけで、聞こえる音は自分の粗い呼吸音と女の声だけだ。  焦点の合わない女の瞳が、ぐるんと回った。  楽しげに囁いた言葉は、なぜか耳元で響いて聞こえた。 「聞こエタ?」  ❇︎❇︎❇︎❇︎❇︎  雨粒が全身を叩きつける。  冷たい滴が服に吸い込まれ、肌を伝い、地面へと流れていく。  生温い水たまり。その中に横たわった自分。  うっすらと目を開ければ、灰色の空が一面に広がった。 (生きてる……?)  感覚のない腕を上げてみると、血に塗れておかしな方向に曲がっていた。  絶望して、腕を落とす。  ぱしゃん、と真っ赤な水がはねた。  誰かが近づいてきて、覗き込んで喚き始めた。  男……スーツ……あ、向かいのホームにいたサラリーマンか。  霞み始めた景色の中に、サラリーマンの人影が黒くぼんやりと映る。  何を、喚いてるんだろう……。  ずっと遠くに聞こえるサラリーマンの声は、自分の頭に届くことはなかった。 (雨の音、うるさいな……)  激しい雨音だけが頭に響く。  すべての感覚が遠のく中で、それだけが鮮明に残っていた。  雨粒が叩きつける、その合間に。  微かに、女の笑い声が聞こえた。
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