見ている

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 見ている。  こちらを。  じいっと。  見て、いる。  その顔に気が付いたのは、もう夜も更けた頃だった。  冬の夜である。明かりの消えた部屋で毛布にくるまり、わたしはパソコンのキーを叩いていた。  文を書くときは、暗いほうが集中できる。そういう理由で、執筆中は明かりを極端に絞ることにしている。だから、その日もデスクに置いた間接照明の橙色のみを頼りに綴っていたのである。最後に時計を見たのが、深夜零時。それから暫く経ってからの出来事なので、おそらく一時にはなっていただろう。  わたしは大きく伸びをした。ずっと同じ姿勢だったので、体が悲鳴を上げている。(かじ)り付きで書いていたのだ。それが、あるシーンで筆が鈍った。何度も書いては消し、書いては消しをしているうちに、何が書きたいのか分からなくなる。そのままなし崩しに集中力が霧消してしまった。  もう、寝るか。それとも珈琲を入れ、もう少し頑張るか。  そんなことを考えていた時だった。  目の端に、ちらりとそれは映り込んだ。左目の方である。デスクの左側にはベッドが置いてあるが、そこまで明かりは届かない。闇の(わだかま)ったそのベッドの、羽毛布団に埋もれようにして、黒い、丸い塊が。  ころり。  と、転がっていたのである。  女だ。  女の顔だ。  瞳は大きく、鼻筋はすうと通っており、口元には小さな黒子がある。髪を藻のように闇に溶けさせ、彼女はぽかんとこちらを見ていた。  サクランボのような唇。生気の抜けた肌。ぽっかりと開いた瞳から、粘度の高い、ぬらりと光る液体が、つう、と零れた。  ――まずい。  手元のリモコンを引き寄せ、電気をつける。  二、三度点滅し、煌々と照らされた部屋のどこにも、その女はいなかった。  わたしはパソコンの画面を見た。今書いているのは、ホラー小説である。とある劇団が、禁断の脚本を上演することになった。その舞台上で、女優が死ぬシーンである。  薄青い、パソコンの文字列の中で、彼女は今まさに殺されようとしている。  記念すべき犠牲者。どうやって殺そう。  この美しい顔に相応しい死を与えなければ。  轢死(れきし)は顔が残らない。絞殺は肌の色が変わってしまう。刺殺はありきたりでつまらない。彼女に最も適した、美しくも(むご)たらしい死を……。  そこで、筆が止まってしまったのである。  先ほど見えた顔を思い出す。  黒髪で、目が大きく、口元の黒子(ほくろ)が特徴的だった。  間違いない。あの女は、今わたしが文中で殺そうとしている、『彼女』そのものである。  ――幻覚だ。いつもの。  わたしは苦笑する。やはり、疲れてしまっているようだ。  実を言うと、こうしたものを見ることは珍しくはない。どうにも入れ込んでしまう性質のようで、今回のように書いているものが見えるというのは、わたしにとってはよくあることだ。  視覚というものは、脳みそで処理をするものである。だから、怖い話を書いている時に、その書いていたものが実体を伴って目の前に現れたのだとしても、わたしは大して驚かない。あくまでもそれは、脳の錯覚であり、幻覚だからである。  しかし、先ほどの顔はどうだ。  なかなかにリアルであった。目の質感、髪の毛の一筋。瞳から流れる血の粘りまで、よくもまああそこまで想像できたものだ。祝杯を挙げたい気分である。  こうして、幻覚を見るときの自分はなかなかに調子がいいと経験上知っている。疲れてはいるが、書けるときに書かねば勿体ない。  もうひと頑張りするか。  椅子から立ち上がり、お湯を沸かそうと台所に向かおうとした時だった。  デスクの上に置いてあったスマートフォンが点滅している。執筆するときは、集中するために音を切っている。それで気が付かなかったのだ。  メールだ。  親友のマユからであった。  ――明日、時間取れない?  ――久々に会おうよ。  わたしは少しばかり驚いた。  彼女がこんなことを言ってくるのは珍しい。いつも忙しい子であった。会おうという話になった時は、念入りにお互いのスケジュールを確認し、日にちを指定するのがマユのやり方である。  逡巡(しゅんじゅん)したのは、一瞬だった。幸い、明日は空いていた。いつでも良い旨を返信する。  何やら、暗示的である。  あの顔はいつもの幻覚であるから、その事は別にどうということはない。問題は、タイミングだ。  黒髪に、大きな瞳、通った鼻筋に、口元の黒子。  この顔は、創作ではない。  わたしの小説で殺されそうになっている『彼女』、そのモデルこそ、わたしの親友、マユなのだから。
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