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雨が降っている。真夜中だがなかなか寝付けない、散歩をすることにした。
傘を差して宙を見上げる。雨は当分に止む気配はない。
家の前の灯り。蛙の合唱の田んぼ。そのあぜ道を歩いて、雨に濡れた路地にたどり着いたとき、三叉路になっている電柱と古い家の敷石の間の処に、大きな巻貝が落ちていた。
なんでこんなところに、と、拾う。
紅色の、大きな拳ほどもあろうかという綺麗な女の滑らかな肌のような色の巻貝だ。
貝の口に耳を当てると潮騒の音がする。
そんな子供の頃の遊びを思い出して、可笑しくて一人で笑いながら巻貝をポケットに入れて、家に戻った。
家に帰ってから、煙草を吸って一服すると、布団の上に巻貝を置いてみた。
「おい、お前、俺がただの巻貝だと思ったろ」
声がする。巻貝が話しているのだ。夢でも見ているのだろうか。
「あんまり動かすなよ、酔うだろう。それとその服汚いな、酒臭かったぞ」
野太い声の男の声で批判される。
「なんなんだ、巻貝がしゃべっている」
「巻貝だからって舐めてると、痛い目見るぜ」
「お前は何者なんだ」
「俺はこの姿で日本中を旅してきた。
これでも三〇〇年は生きているんだぞ。敬服しろ。
或る時は女中の化粧台の中、或る時はサラリーマンの家の洗面台に、或る時は子供たちのおもちゃ箱の中に…。随分旅をしてきたが、お前にも伝えたいことがある。
もうすぐ、ここも地震が起きて津波で攫われる。早い処、越したほうがいい」
俺は、津波の起こる所に現れる怪異だからな。
そう云って、貝殻は振動した。嗤っているのだろうか。
「嘘じゃない。今までの俺の持ち主は津波にやられて何人か亡くなっている。
俺は津波の予兆に現れる地震雲みたいなものだ」
「いきなりそんな話、信じられるか」
「まあ、嘘だと思うならやめたっていい。
ただし、命は大事にな」
確かに、しゃべる貝殻というインパクトはすごい。嘘だと思えばそう思えるかもしれないが、津波は怖い。この際だ。このオンボロ家から、俺は居間で寝ている母を、明日にでも家から連れ出して、しばらく旅行がてら遠くの親戚の家に行こうと決意した。
そして、嘘みたいな話だが、
本当に数日後、激しい風雨の中、俺の家は地震による津波で、跡形もなくなってしまったのだ。そしてその日から数日後、しゃべる巻貝は、いつの間にか俺のポケットから忽然と消えてしまったのだった。
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