人魚の川

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屋敷の裏は木々に覆われ一年中暗く、石垣が積まれていて、深めの川が流れている。川が流れているため、何時の季節もひんやりと冷たい。 家主の息子は冬以外、其処の屋敷の出っ張りのある石垣に腰を掛け、足元を水面すれすれまで近づけて一人酒を飲んでいた。 いわゆる、金持ちのドラ息子というやつである。家は旧家で屋敷自体も大きく、父親は地元の有志。酒蔵や土地を持ち色々稼いでいる。だからか、息子は甘ったれたひ弱な口先だけのへらへらした放蕩息子に育った。もう成人しているのに親に金をせびって昼間から村の女と遊んでばかりいた。 ただ、金があるだけでそんなに道楽息子になった訳ではない。子供の頃から筋肉の硬くなる病を抱えていて、よく道をよろよろと不自由そうに歩いている処を、村の子供達にからかわれて石を投げつけられたことがある。お前も男だろう、とガタイのいい村の青年にどやされては泣きべそをかきながら自宅に帰ってきたこともある。 真っ昼間から酒を飲んで自室で寝ていると、夢を見た。 家の裏の、美しい川に人魚が棲んでいる。どこから現れたのか、いつから其処に居たのか、黒目がちの二十歳くらいの若い美女が胸乳を隠しもせず、昏い川で楽しそうに泳いでいる。 自分も初めはぼんやりとその人魚を見ていたが、次第に我に返ったのか、近づいてきて酒を欲しがる人魚に手を差し伸べる。 と夢は此処で醒める。 同じ夢を何度も見た。特に麗らかで穏やかな櫻の舞う季節や、蝉の音が止んでいる夏の真昼間に、夢を見た。髄脳がとろけそうなほど気持ちいい気分で目が覚める。 だから、屋敷の裏の川には人魚が棲んでいるのはなにかの事触れなのだと、信じて疑わず、家主の息子は人魚を探して屋敷の裏で酒を飲む。 「なあ、そろそろ現れてくれよ」 息子はぽちゃんと石を川に投げ込んだ。 家の者は息子を狂人のような目で見る。鱗は翡翠のように輝き、肌は珠のような人魚が裏の川に棲んでいるのだと、誰に言ってもおかしなものでも見るかのように見られた。 「こっちは待っているのだぞ。 もう何年にもなる。夢の中のお前を掻き抱くところをしっかり覚えているのだからな」 そう云いながら、酒瓶をらっぱ飲みして髪を搔き乱し、体を大きく揺さぶる所は常軌を逸した人間の様に見える。 水面が不意に揺れたように見えた。 「来たか⁉」 しかし、それはイワナが尾を跳ねただけで、水面はまたいつも通りの涼やかなせせらぎを取り戻す。「なんだ…違ったか」この台詞を何度繰り返したか。うんざりだった。 「もう、こんなことをしてばかりなのは、そろそろ潮時なのかもしれないな…」 息子は体の病気を治すために、遠い東京の病院に入院することが決まっていた。酒の飲みすぎでアルコール依存症にもなっていたので、それも治さなければならなかった。 膿んだ目元で水面を睨みつけながら、ヴー……と嗚咽を漏らす姿はもはや、尋常な人間には見えない。そして、小さな声で、ぶつぶつと呟いた。 「…そうかもしれん…俺も…人魚にならなくては……お前には会えないのかもしれん」 カワセミが羽ばたいた、————と、水面がぼちゃんと大きく波打って、石垣にはもう誰も残されていなかった。 水面は大きくたわみ、くしゃくしゃの頭髪が沈んでゆく。川の中で意識のない男の着物に、白い腕が絡みつく。いつぞや見た様な、昔の、亡くなった母親によく似た美しい面差しが、水の中で目の前に—————、 「はっ!」 気が付くと、息子は石垣の上で意識を取り戻した。 「今のは……」 ずぶ濡れだった。酒瓶は何処かへ行ってしまっている。 すっと視線を移すと、川の上流に人影が見える。白い肌が、昏い木々と水面の境目でくっきりと浮き上がっている。美しい人魚だ。確かに、いたのだ。 「まってくれ……!俺は……!お前に……!」 男の呼び声が鳥たちの声にかき消けされそうになる。 亡くなった母親似の人魚は、男の声など聞こえなかったように、身を翻し、上流の方へ消えて行ってしまった。 いたのだ。確かに、人魚はいたのだ。
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