1音5万円で売っちゃった話

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「じゃあ、『ら』と『る』をお願いします」 「……かしこまりました。では目を瞑って下さい」  僕は言われた通りに目を閉じる。彼女が椅子から立ち上がる動作が聞こえる。僕の耳元に吐息がかかり、そして━━━━━━━━  ジョキン。  鋏で髪を切ったような金属の音が聞こえた。目を開けると彼女は鋏をポケットにしまい、元の椅子に座り直した。そして机の上に現金の10万円が置かれた。 「『ら』の入った単語を発してみてください」 「えっと……■イオン?」  声にノイズがかかって、上手く発音できない。僕は驚きを顔に張りつけたまま、彼女を見た。 「お客様の声はこちらの瓶に収納させて頂きました。またご入用でしたら、この店を訪ねて下さい」  今思えば彼女のその微笑が僕の運命を決定づけたのかも知れない。僕は自分が思考する前にその言葉を発した。 「この店ってア■バイト出来ますか?」  この店で正式に雇用が決まったがこのアルバイトは想像以上にキツかった。給料は普通に良いのだが、仕事が無さすぎる。暇が最大の敵だと言ってもいいくらいだ。細道を進んでここまでやってくる客は僕の想定以上に少なく、誰も来ない事もよくあった。  店主の名前はヨモギと言って、僕が思ったよりポンコツだった。僕の名前を全然覚えないし、本を置く位置も適当だ。よくビー玉を触っては1人で笑っていたり、人がいないと1人で歌い出したりする。後ろに僕が立っている事に気づかずに歌っていた時はしばらく口を聞いてもらえなかった。 「どうやって声を切り取ってい■んですか?」 「それは企業秘密です」  ヨモギさんはよく笑う。接客の時の無表情からは考えられない位の朗らかさだ。その表情を見て恋をしない人はいないだろう。事実僕はヨモギさんの虜になっていた。 「私嬉しいんです。ずっと独りで接客してましたから。後輩が出来た気がして」 「これか■もよろしくお願いします。先輩」 「……はい!」  僕の呼び名は後輩になった。嬉しかった。  来客がある時の大半の用事はやはり声の買い取りで、僕も助手としてその場に同席する事が多かった。  1音だけ売る人。『あ』から順番に売る人。全部を一気に売り払う人。売るのを辞める人。沢山の人に巡り会ったけど殆どの人の目が死んでいるように感じられた。僕も同種だから、よく分かる。 「買い取った声はどうな■んですか?」 「発達障害などで声が満足に出せない人のために売ります」 「儲け■れ■んですか?」 「儲けが出るから商売です。あと聞き取りづらいです」  ヨモギさんは苦笑した。  僕は少しずつだが声を売っている。借金は減らないのにお腹は空くので仕方なくだ。 「これ以上売らない方がいいですよ。声が出ない事は想像以上に苦痛なんです」  そんな優しい言葉を振り払う様に僕は売り続けた。そうしないと、皆が不幸になってしまうから。  ヨモギさんと過ごす日々は本当に楽しかった。ずっとここに居たいと思った。思っただけだから、つまりそういうことだ。 「これからは筆談にしましょう」 「■■して■■■?」 「……馬鹿っ」  ヨモギさんは何故か泣き出してしまった。僕はまだ7割しか売っていない。全部売った人に対しても無表情だったのに。 『分かりました。筆談しましょう』 「……はい」  この店で働きだして1ヶ月が経っていた。僕の字は乱雑で見にくいのに、ヨモギさんは解読しながらいつも通りの会話を続けてくれる。 『ヨモギさんのお勧めの本はありますか?』 「私は哲学の本かな。人生とは何かとかよく考えるからね」  人生について僕は深く考えたことは無い。考えるのも億劫になってしまった。小学生の時には夢を持つことを半ば強制させられて、社会に出ると個性を潰すことを求められる。こんな社会じゃ夢なんて持つことすら馬鹿馬鹿しい。 『ヨモギさんって夢とか持ってますか?』 「私の夢は、この日々を何時までも無くさない事かな。平和なままがいいなあ」  ヨモギさんらしくて素敵だ。初めて出会って1ヶ月しか経っていなくても、その理想の素晴らしさ位は分かる。 「でも、無理だよね。割れないビー玉なんて無いもんね」  ヨモギさんはカウンターに置かれた青色のビー玉を眺めながら、か細く笑った。  そしてビー玉が割れる時が来た。唐突だけどそれが世の常だ。端的に言えば僕が抱えていた借金もとい両親のギャンブル代が膨らんでしまったのだ。僕が子供の時は両親は勤勉だったけれど、会社の倒産を機に2人とも欲望の渦に飲まれてしまった。賭博で拵えた借金なので、自己破産も難しそうだった。  僕は手持ちの携帯電話で両親の事を確認すると、短い嘆息をついた。もうこれ以上は借金を肩代わりする事は出来ない。僕の声も3音を残して全て売り払ってしまったからだ。  今日を最後のアルバイトにしよう。そして誰も見ていない所で1人くたばろう。これが僕の人生に相応しい。 「こんにちは。後輩さん」 「■■■■■」  挨拶を終えて、いつものカウンターにつく。ヨモギさんはいつもみたいにビー玉を触っていて、僕もいつも通りに本を読んでいる。先輩から貸してもらった哲学の本だけど、最後まで読むことが出来なかった。それだけが心残りだ。 「後輩さん。今日は君がこの仕事場に来て2ヶ月だよ。おめでとう!」 『ありがとうございます!』  筆談も今日でお終い。でもこの事をヨモギさんには言わない。言えば、離れ難くなる。今日も何食わぬ顔で働いて、明日からは来ない。これでいい。これでいいのだ。 「明日からもじゃんじゃん働いていこうね!」  僕はその問いに曖昧な笑みを浮かべたまま、本の匂いを嗅ぐ。哲学の本は普通の匂いだけど、僕にとっては特別な匂いだ。 「ヨモギ■■」 「え?何ですか?」 「■■■■■」  僕は今日、ヨモギさんのビー玉を割ってしまう。この言葉を発したのは免罪符でも愛情表現でもない。ヨモギさんにこの言葉の意味を永遠に考え続けて欲しい。これは僕の最低で許し難い、呪いだ。  閉店時間が来て、僕はヨモギさんに挨拶をして店を出ようとする。冬も近いのにまだ置かれている風鈴に心が揺さぶられる。心臓の鼓動が大きくなる。 「後輩くん」  振り返る。振り返ってはいけないのに。 「■■■■■だよ」  ヨモギさんの声が聞こえた。それが声を切り取ったから聞こえなかったのか小声で言ったからなのかは、分からない。  冷たい外気が肌を突き刺している。吐息も白に染まりかけていて、冬の訪れが身に染みて感じられた。  情けない話だけど、僕は未だに死ぬかどうか迷ってしまっている。あの言葉の意味が何なのか知りたい。この心臓のドキドキの理由を知りたい。僕達は互いに呪いをかけてしまったのだ。  解かれるのは、2人が再び出会った時だけだ。
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