3人が本棚に入れています
本棚に追加
雨か・・・
鱒二は朝方、木賃宿で眼が覚めた。
仄かに夜が明け始めている。
しかし、天気予報の通り案の定、今日は雨のようだ。
雨でも釣りには行くつもりである。川の水量が気になるところだけど、雨なら雨なりの楽しみ方というのがある。
釣りの醍醐味はむしろ雨の日かもしれない。
そんなことをいろいろ思い巡らせていると樋から雨水が漏れているのか、
ポチャンポッチャン、ポチャンポッチャン・・・・・・
と滴の垂れる音がする。
その音を聞いているうちに、フッと鱒二は随筆「点滴」に記した文章のことが頭をよぎった。敗戦前に甲府の街に疎開していた時の出来事だ。
宿の手洗いの水道栓から水がポトポトと漏れていた。
あいつは自らの好みの音が出るように、洗面器に水を敢えて貯め、そこへ漏れてくる水滴が、
ちゃぼちゃぼちゃぼ・・・・・・
と1分間に40滴ぐらいの速さで垂れるように栓を閉める。どうでもいいような小賢しい遊びをあいつはよくやって遊んでいた。
でも鱒二は、
ちょっぽん、ちょっぽん、ちょっぽん・・・・・・
1分間に15滴くらいが理想だとして、トイレに行って手洗いを使う度に、そういうふうになるよう栓を閉め直す。その滴が垂れる音を自分が聞きたい音にこっそり変えてしまうのだ。
食事しながら飲み明かしている間中、お互い、水道栓を、厠へ行く度に黙って直し続けるのである。
そのことを双方話題にすることはなく、ただ憚りに行くと、その栓の締め具合を何とはなしに直してしまうのである。
俺はあいつを、あいつは俺を、なんとなく意識しながらしょうもないことを愉しんでいたのである。厠に行く度に直されてしまうことを感づいているのだけど、それをことさら口にして問題にしようなどということはない。
相手を咎めるつもりなども毛頭なく、ただ個人的にお互いが、
ちゃぼちゃぼちゃぼ・・・・・・
か、
ちゃっぽん、ちゃっぽん、ちゃっぽん・・・・・・
かなだけなのだ。
戦後、また同じ旅館に泊まることになった折り、鱒二は、水道栓からやっぱりあの時みたいに漏れる水音を聴いた。
聴きながら、
ちょっぽん、ちょっぽん、ちょっぽん・・・・・・
を、
ちゃぼちゃぼちゃぼ・・・・・・
に変えてしまったあいつがもういなくなってしまっていることに気付き、なんとも言えない寂寥感に包まれた。
せっかく戦中を生き延びたのに、とんだ女と心中なんぞして、この世から去ってしまいやがった・・・。愚痴のひとつも言いたくなるのだけど、胸に広がる重い屈託に苛まれ、溜め息すらつけなくなってしまう・・・。
「会いてぇなぁ~・・・」
と野暮なことを思いながら、隣りの部屋であいつが眠っているんじゃないかとフッと思ってみたりする。
ポチャンポッチャン、ポチャンポッチャン・・・・・・
あいつならこの雨音が響く樋の破れ加減をこっそり寝間から出て、好みの音に変えてしまうんじゃないか、と想像するととても可笑しくなり、布団に包まったままひとり微笑んでしまった。
鱒二の耳に、
ちょっぽんちゃっぽん、ちょっぽんちゃっぽん・・・・・・
といつの間にかその音は響いていた。
最初のコメントを投稿しよう!