紫陽花と雨

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 絹糸みたいにか細い雨が、紫陽花を静かに打ち据えている。  痛そうだな、と、少女は思った。いくら細かい霧雨であっても、あれだけ多量に、しかも隙間なく打ち付けられては、さすがの紫陽花とて痛かろう。こぶりな花を寄せ集めるように必死にその身を覆いはしても、無慈悲な雨は花の隙間を縫うようにして降り注ぎ、小さな葉っぱと頼りない茎をしとどに濡らす。これでは根腐れしてしまうかもしれない。  とはいえこの少女とて、薄ら寒い初夏の曇天の下、わざわざ傘を差して紫陽花を覆ってやるほどの酔狂さなど持ち合わせてはいなかった。仮に根腐れして枯れてしまったのだとしても、それはすべて時の運。空の行方など少女にも花にも操作できるはずがない。 (何もかもが面倒くさい)  誰もいない教室の片隅で、うんと大きく伸びをする。別段やることがあって残っていたわけではない。ただ、噂やお世辞、陰口といった日々の心労から少し離れ、雨の日特有の穏やかな沈黙を甘受していたかっただけだ。  なまぐさい土のにおいの香る窓辺へ腕を伸ばし、開け放たれた窓をからからと閉めていく。そこでふと、少女は雨霧の向こうから蜃気楼のように、薄ぼんやりとした人影が浮き出てくることに気がついた。  片腕を抱き、片足を引きずり、歩くと這うの中間みたくずるずるにじり寄ってくる。その姿はまるで生ける死人だ。青白い顔には泥と血がこびりつき、体操着も雨でずぶ濡れ。抱えているぐしゃぐしゃの紙は彼の教科書か何かだろうか。  苦悶を噛み締めた少年は、目元に張り付く前髪を払いのけることすらせず、ふらふら校舎へと近づいてくる。何年生だろう。可哀想に、いじめにでも遭っているのかな。 (まあ、私には関係ないけど)  窓枠に切り取られた静謐な雨の風景に、突如現れたB級ホラー映画の産物は、安穏な教室から向けられた不躾な視線になど到底気づいていないようだ。  放っておけば良いものの、少女の瞳は自然と少年を追いかけていた。彼はこれからどこへ行くんだろう。服を洗う場所なんてあるのかな。あの教科書はもう使えないだろうけど、これからどうやって授業を受けるつもりなのかしら。  少女の視線をまるで無視して、少年は必死に足を進めている。お世辞にも綺麗とは言えない、でも鬼気迫る凄みを持った彼の双眸に、いつの間にか少女の目は釘付けになっていた。  雨の沈黙をかいくぐり、はーっ、はーっ、と荒い呼吸が耳元に直接降り掛かってくるようで、少女は我知らず唾を飲み込む。…… (あ)  と思ったとき、ふいに汚い水音が雨音の中をつんざいた。ぬかるみに足を滑らせた少年が、そのまま顔から地面にべちゃっと倒れたのだ。  少年の濡れた黒髪が地面の上に不気味な花を咲かせている。握った拳がふるふる震え、泥を跳ねて土に突き立てられたかと思うと、彼はそのまま何もかもを放り出したみたいに動くのをやめてしまった。  世界に再び静謐が戻った。  ところが少女は弾かれたように立ち上がった。机の隅に引っ掛けていた傘を掴み、足音を鳴らして教室を飛び出す。ガラッと開け放たれた引き戸の、縁に叩きつけられて跳ね返ったそれが、未だ沈黙を保つ教室と少女とを隔絶した。  絹糸みたいにか細い雨が、紫陽花を静かに打ち据えている。
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