蛇神村は雨に沈む

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*  ある日のこと。  蛇神の神域から戻ってきた旦那様の頬に、一筋の朱い痕があった。 「衛。救急箱を持ってきてくれないか」  上がり(かまち)に腰かけて、旦那様が革靴を脱ぐ。  まるで大したことないと言わんばかりの様子。  だからこそ、僕はかえって慌ててしまい、廊下を走って転んでしまった。右ひざを擦りむき血が滲んだ。  そして何故だか、床の間で僕は小袖の裾をめくられ、脱脂綿に含んだ薬を右膝に当てられていた。 「どうか使用人の手当てなどおやめください。自分でできますから」 「できるかもしれないけれど、放っておくだろう?」  自分でやると必死に訴えるも、旦那様は聞く耳を持ってくれない。  そして頭を下に向けて僕の膝に処置を施してくれる。  たどたどしくも手当てをしてくれる様は、なんだか普段とは違う。 「うっ、……」 「染みたか? 多少は我慢しろ」  白魚のような美しい手が、僕に触れている。  それだけで夢見心地になりそうだったので、痛みは正気を保たせてくれる分ありがたかった。 「その後に私の手当てをしてくれたらいい」 「……はい」 「衛を我が家に連れてきたとき、傷だらけだったことを思い出したよ」 「旦那様は僕にとっての恩人です。あなたのためなら、僕はすべてを捧げられます」 「そういう誓いは軽々しく口にしない方がいいよ」  声色こそ優しいものの、どこか棘を含んだような響き。  いつもと違う。  不安が、そのまま口をついて出た。 「……旦那様?」  旦那様が顔を上げ、僕を見つめてきた。  灰青の双眸に僕の戸惑う表情が映る。 「衛」  そっと、旦那様の手のひらが僕の頬を包み込んだ。  ひどく滑らかで、おそろしく冷えた指先。  僕は息を呑む。  それを待っていたかのように、旦那様が告げる。 「私の可愛い衛。おまえに、話しておかねばならないことがある。……次に雨が降るとき、私は、もう帰ってくることはできないだろう」 「どういう」  急に喉が乾いて、指先が冷えていくのを感じた。  帰ってこない、とは。 「意味ですか」 「言葉通りだ。蛇神様は、私に飽きてしまわれた。本当は今日、私のことを喰われるおつもりだったようだ。なんとか頼み込んでこうして帰らせてもらえたが、次はない」
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