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ある日のこと。
蛇神の神域から戻ってきた旦那様の頬に、一筋の朱い痕があった。
「衛。救急箱を持ってきてくれないか」
上がり框に腰かけて、旦那様が革靴を脱ぐ。
まるで大したことないと言わんばかりの様子。
だからこそ、僕はかえって慌ててしまい、廊下を走って転んでしまった。右ひざを擦りむき血が滲んだ。
そして何故だか、床の間で僕は小袖の裾をめくられ、脱脂綿に含んだ薬を右膝に当てられていた。
「どうか使用人の手当てなどおやめください。自分でできますから」
「できるかもしれないけれど、放っておくだろう?」
自分でやると必死に訴えるも、旦那様は聞く耳を持ってくれない。
そして頭を下に向けて僕の膝に処置を施してくれる。
たどたどしくも手当てをしてくれる様は、なんだか普段とは違う。
「うっ、……」
「染みたか? 多少は我慢しろ」
白魚のような美しい手が、僕に触れている。
それだけで夢見心地になりそうだったので、痛みは正気を保たせてくれる分ありがたかった。
「その後に私の手当てをしてくれたらいい」
「……はい」
「衛を我が家に連れてきたとき、傷だらけだったことを思い出したよ」
「旦那様は僕にとっての恩人です。あなたのためなら、僕はすべてを捧げられます」
「そういう誓いは軽々しく口にしない方がいいよ」
声色こそ優しいものの、どこか棘を含んだような響き。
いつもと違う。
不安が、そのまま口をついて出た。
「……旦那様?」
旦那様が顔を上げ、僕を見つめてきた。
灰青の双眸に僕の戸惑う表情が映る。
「衛」
そっと、旦那様の手のひらが僕の頬を包み込んだ。
ひどく滑らかで、おそろしく冷えた指先。
僕は息を呑む。
それを待っていたかのように、旦那様が告げる。
「私の可愛い衛。おまえに、話しておかねばならないことがある。……次に雨が降るとき、私は、もう帰ってくることはできないだろう」
「どういう」
急に喉が乾いて、指先が冷えていくのを感じた。
帰ってこない、とは。
「意味ですか」
「言葉通りだ。蛇神様は、私に飽きてしまわれた。本当は今日、私のことを喰われるおつもりだったようだ。なんとか頼み込んでこうして帰らせてもらえたが、次はない」
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