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僕は、雨の日がきらいだ。
「行ってくるよ、衛」
「……お気をつけて」
雨が降ると、旦那様が外出する。
僕は上がり框で正座して、額を床につける。
旦那様が扉を引き、雨の音がいっそう大きくなる。
蛇の目傘を開く音。
雨が、不規則に傘に当たる音。
旦那様の足音が遠ざかっていく音。
耳に届くのが雨音のみとなってから、ゆっくりと頭を上げた。
僕が藤乃宮家で働くようになってから、およそ十年。
最も過ごしたくない時間のはじまりだ。
とある集落の高台にそびえたつ古い屋敷。
その主こと唯人様は、――蛇神の生贄だ。
生贄なのにどうして五体満足に生きていられるかというと、分かりやすく、おぞましい理由ゆえ。
雨の日に求められるのだ。蛇神から。交わりを。
蛇神が満足したところで空は青く晴れ、旦那様は帰ってくる。
藤乃宮家の当主は、代々己の身を蛇神へと捧げている。
そうやってこの集落の天候は『正常』を維持し続けてきたのだという。
集落にとって、藤乃宮家はなくてはならない存在なのだ。
当代の主、唯人様は非常に美しい御方だ。
白皙の美青年とは旦那様のためにある表現。
出会った頃からまったく見た目が変わらないので本当の年齢は分からない。
烏の濡れ羽を思わせるような艶めく黒髪は、今は肩に届くくらいの長さで揃えられている。
瞳は黒に少し灰青がかっていて、まるで宝石のような深い輝きを湛えている。
体は鍛え抜かれていて、背筋はまっすぐ伸びている。旦那様は剣道の師範でもあり、堂々とした所作には惚れ惚れとしてしまう。
同じ男性だと……人間という生き物だとは到底信じられない佇まい。
旦那様に仕えていることは、僕の唯一の誇りだ。
だから、僕は。
帰ってきた旦那様が少しでもくつろげるように。
風呂に香りのいい花を浮かべ、たっぷりのご馳走をつくり、寝所を清潔に整える。
雨音は雑音。
旦那様を連れ去る合図。
そして僕の世界から、他の音を消してしまう。
雨の音を聴いていると、視界にも靄がかかってくるようになる。
この世界が、すべて幻なのではないかと思えてくる。
だから、僕は。
この世界が幻だと信じ込まないためにも。旦那様のことだけを考える。
すると、それは何よりも幸福な時間となる……。
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