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小夜の蝶
わたし、佐々木詩。二十二歳。
大学卒業後、お堅い銀行へ就職した。
安定とお金を求めるために入ったようなもの。面接のときに言ったクソ真面目な志望動機なんて、ちゃんちゃら可笑しい。
「佐々木さん、橋本さん。夜、ご飯でも行こうか?」
外回りの部長、八雲仁が声をかけてきた。
いつも外じゃ呼び捨てするくせに。
営業の中でも常にトップの成績で仕事をこなす三十二歳。三歳の娘と妻と暮らす既婚者だ。
そのマスクも声も甘い。憎ったらしいほど甘ったるい。
「やったあ! 金曜日だし焼き肉がいいなあ」と、こっちも負けじと甘ったるい声を出すのは橋本莉子。
わたしと同期入社の、一見大人しそうに見えて実はあざと女子。
八雲部長。わたしと莉子が二人きりになるのを狙って言いにくるあたり、用意周到な男ととれる。
「詩も勿論行くよね?」
当然のように言う莉子。
「勿論行く」
そしてわたしも当然のように返す。
仕事終わったら錦の伯爵で待ってて、と言い残し再び外回りへ行く八雲仁。忙しい男。伯爵とは個人が営むコーヒー店のこと。わざわざ職場から遠く離れた錦まで行かせるあたり計画的犯行と思う。
銀行業務は細かな神経を使う上、外回りの仕事はそれプラス超ハードなスケジュール。お得意様に電話をしているか、飛び回ってるか。
その点、融資担当のわたしは来店してきた一般客や会社のお偉い社長さんにお茶とスマイルを出す。
それも大切な仕事だと思ってる。夜の蝶、ホステスだってそうでしょう。お客様に喜んでもらうため、もてなすことに誇りと情熱を持ってる。わたしだってそう。
勿論やるべき仕事もしてる。
書類作成に小切手切ったり、切手や収入印紙の数をあたったり。数千万単位の小切手を扱う内に、これがただの紙切れにしか見えなくなってる。慣れって怖い。
そんな時間が過ぎていき、閉店時間になり店舗のシャッターが閉まる。
残務作業を終えてもまだ時間があるから、休憩室で雑談をして定時で上がる。
「待たせた。行くぞ」
磨き上げられた革靴を偉そうに響かせ、俺様な足取りで八雲仁はやって来た。
これ本当にさっきの彼と同一人物でしょうかと疑いたくなる、上から目線ぶり。
そんな部長にそそくさと着いていく莉子。
「聞こえてないのか、詩。焼き肉食いたいんだろ?」
「聞こえてるっつーの」と小声で囁く。この二重人格ドSなイケメン上司に惚れてる弱み。強く言い返せない。
焼き肉屋で八雲部長にご馳走になった後。
仁が通勤で乗っている自家用車の後部座席に乗り込んだ。大型車でゆったりした車内。
着いた先は公園の駐車場。いつものお決まりの場所へ、雑にハンドルを切って車を停車させる、仁。
「ほら真ん中開けろ」
運転席から靴を脱いでこちら側へやってきた。
広大な敷地の公園は、あちこちにこういった無人の駐車場が存在している。街灯もポツンポツンとあるくらいで薄気味悪いけど、イチャつくには申し分ない場所。
「んう、八雲さんもっと……」
なまめかしい莉子の声。
八雲仁にキスを要求している。
そんな彼はわたしの火照る右手を掴む。指と指を交互に絡ませてきた。
この男、なかなかに卑怯な奴。こんなことしてる、わたしと莉子もどうかしてるし卑怯なんだけど。
「詩、待たせたな」
じっと、わたしを見つめてくる瞳。甘ったるいハスキーな声が耳を塞ぐ、と思ったらあっという間に生意気を言う口を塞がれた。
これじゃあ生意気も言えない。
「ねえ、八雲さん。早く」と早くもキスを催促する莉子。仁の背中に抱きついているようにも見える。
こんなハーレム状態、入社してまさか自分が味わうとは思ってなかった。
八雲部長と何回か食事に連れていってもらう内に親しくなりすぎた。莉子と八雲仁の体の関係はわからない。莉子、この二重人格ドSなイケメン男に相当熱を上げてるから、もう寝てると思うけど。
焼き肉をご馳走になってからそう日が経たないうちに、八雲部長からご飯のお誘いがきた。今回は莉子抜きでらしい。
伯爵で待つこと二十分。
イライラが蓄積し始めた頃。「詩、悪い。支店長に掴まってた」と八雲仁がやってきた。わたしはあえて後部座席へ乗り込む。助手席に乗らないのは、せめてもの抵抗ってやつ。
「おい、いつまでも膨れてるとお前の行きたがってたパスタ屋連れていかねえぞ? 甘えればもっと可愛いのに」
と脅してくるクズ男。遅れてきた張本人がまさかの脅しとかありえない。
「じゃあ莉子と二人で来たらよかったじゃん」
「お前、妬いてんのか?」
「うるさい!」
「ま、俺としてはだ。ツンデレの詩は可愛いってこと」
と珍しくご機嫌をとり、バックミラー越しに後部座席に座るわたしを目で犯してくる。
子供扱いする男なんか──。
二重人格でドSな女たらし。自分がしたいときにキスを迫ってくる自己中なイケメン既婚者男。それが仕事のできる八雲仁なのだ。
こんなクズ男を好きになったわたしは、今日も彼の言うがままに。
でも今日の予定はちょっと違った。
「奥さんと子供、今日実家に泊まりに行ってんだよね」
「へえ」
キスの合間に言うそれ、お宅の家庭事情必要ないです。
「詩、うち来るか?」
「行かない。ばかじゃないの? 近所の目だってあるでしょうが。行けるわけないじゃん」
「んっ、ちょっとお──」
またしても生意気なことばかり言う唇を塞がれる。
「黙ってついてこい。合図するから大丈夫」
確かに深夜二十二時。辺りは暗い。
着いた場所に驚いた。ここ団地じゃん。何が大丈夫だよ、と思いながらもその合図を待った。
三階トイレの電気が付いたらおいで、の合図。
トイレらしき小窓がパッと明るくなった。
渡された車のキーでロック。
全速力で走る。
三階まで一気に階段を駆け上がった。
生活感のある部屋へ上がると、八雲仁は息の上がったままのわたしを浮くほど抱きしめる。
「詩、好きだ。お前がほしい」
「八雲さん、わたしも好き」
「家に上げたの、詩が初めてだよ」
この男の言葉なんか信用するもんか。
いっときの恋でしょ。いつかは覚める。割り切ればいい。今夜だけはクズ男の望み通りにしてあげる。傷も承知でぜんぶ受け入れてあげる。
こんなときだけ優しい言葉で攻めてくる仁。
触れてくるとこ、ぜんぶ優しい。好き。
寝そべると子供のおもちゃが見える。
罪悪感。
罪悪感が増すほど夜の蝶は艶やかに舞い踊る。
狂ってる。
こいつに全部狂わされたんだ。
でもどうしようもなく好き。
執拗に愛撫され押し広げられたわたしはクズ男、八雲仁を受け入れる。
肌と肌を擦れさせ、やがてひとつになる。
罪悪感と幸福感が交ざりあって感情を一気に高め合った。
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