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雨上がりの木立。レトはひとしきり伝う涙を拭う。残った雨粒の雫がぴとりとレトの背に降ってくる。うずくまったままのレトは背中を震わせる。逃亡者のごとく。裸足で土の上に座り込んでいた。
素足は泥沼に浸かり、服も薄着で雨に肌を濡らせて夜を越えたから、一睡もできなかったらしい。奥歯がかち合う音が小鳥の鳴き声を黙らせる。白い日差しはもろく、温かいとは言えない。
「ああ、もうママには会えない」
ぶたれた痕の残る頬を手でこする。そんなことで癒えるわけもない。ただ、乾いた高い音を思い出した。皮下からうずく痛みに、自身の肩を抱く。
雲が早い。耳たぶをかすめる風の音が内耳まで反響して悲しい。移動するなら今だろう。しかし、レトは縮れた髪に顔を埋めるようにして空を見上げることをやめてしまう。
歌が聞こえる。母の子守唄。眠らせるために歌っていたのか、泣いているレトを黙らせるために歌っていたのかレトには未だに分からない。
そんなある日、レトが一人で立ち上がって歩けるようになって二年が過ぎた頃。
父が死んだ。父と母の激しく罵り合う声を思い出してきつく目を閉じるレト。
森に雨が踊り出した。レトにはその狂喜乱舞するような雨音が昨日迎えた闇夜より恐ろしいと思えた。雨音から逃れるために、うつむいたまま立ち上がり、この急雨をしのげる場所を探す。大きな岩を見つけた。そこのくぼみに一人で座り込めるほどの空間がある。レトは、そこにうずくまる。
腹が鳴る。何か食べなければ。遠くで自分の意思がそうぼんやりと告げる。でも、何を?
朝食のカビの生えたブレッドは食べることを許されず、床にぶちまかれた。何度も頬を張る母。「あの人が死んだのは、あんたのせいだ!」と何度も罵った。
レトはごめんなさい。ごめんなさい。と謝るだけ。何が引き金になったのか、分からない。
もしかして、父の銀食器を眺めていたことが悪かったのだろうかと、レトはぼんやりと思い起こす。父の銀食器は、いつも磨かれていた。そして、その食器は父が亡くなってから一度も使われたことがない。レトの食器は欠けたりひびが入った陶器。あの皿が割れる音はもう聞き慣れている。
大ぶりの雨が降りしきる。激しく打つそれは、ママがレトの頬を張るよりいくぶんかマシなはずだった。川のように雨水が侵食する。このままだと凍えて死んでしまう。しかし、レトには逃げるというまともな考えは浮かばない。なぜなら、すっかり家から逃げてきたのだ。ここは、家の外。もうそれだけが答えだった。
レトは子守唄を歌う。ママのために。
「星のいない夜はない。雨の日も星はある。あなたをいつも見ているから、おやすみなさい。心静かに」
ママはまだ眠っている時間帯だろう。そして、目覚めることもないだろう。
レトは、母を銀食器で殴った。母が父を銀食器で殴ったように。
「ママおやすみなさい」
雨音がレトのか細い声をかき消した。
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