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『いやー、わかってたけどさ。謙一さん、消防士だもん。深夜のお仕事が多いってわかってて、謙一さんが仕事が恋人のようなもんだって知ってて好きになっちゃったのあたしだもん。でもさ……それでもちょっとはさ、二人の時間がほしい、とか。そう思っちゃうのはワガママなのかなって』
「灯……」
『理解してくれてると思ってた。君はちょっと重いよ、とか。そう言われちゃうとさ。あたしの存在って結局その程度なのかなっつーか……なんか色々こう、クるもんがあるじゃん?そんなつもりじゃなかったんだよ、あたしだって。謙一さんの負担になりたいなんて、まったく思ってなかったんだよ……』
本人の声が沈みきっている。それをまるで咎めるように、向こうから物音が聞こえてきた。何か作業でもしてるのだろうか。
『あー、五月蝿い?ごめんね、お父さんが起きてきちゃって。あんま大きな声で喋ると叱られそうだわ』
無理やり笑っている。それがわかる声が、なんとも痛々しい。
『あたしは練馬、謙一さんは名古屋の勤務。このくらいの遠距離恋愛なら大したことないと思ってたし、あたしももっとライトな恋愛ができると思ってたよ。こんなに、マジなくらい好きになって……会えないことが耐えられないなんて思ってもみなかった』
よほど堪えているらしい。私はなんと声をかければいいかわからずに押し黙ってしまう。いかんせん、昔からモテるタイプの灯とは違い、私は彼氏いない歴=年齢=二十八年の女なのだ。そこまで狂おしいほどの恋をしたことなんてない。確かに謙一はかっこいい年上のおじさまといったかんじで、落ち着いているし優しいし、灯が好きになるのもわなるなと思ったのだったが。
「……もう一度、ちゃんと謙一さんと話してみなよ」
私は諭すように彼女に告げる。ふと、何か妙な違和感を感じて首を捻った。
さっきから、何かがおかしい気がしている。その何か、の正体が掴めないのだけれど。
「灯の気持ちをきちんと伝えたら、謙一さんもわかってくれるかもだよ。優しい人なんだしさ」
『……うん、やっぱりそれしかないよね』
「そうだよ。私はこうして飲みに付き合ったり話聞いたりくらしか出来ないけどさ」
『……ううん。充分助かってるよ。ありがとね、瑞帆っち』
「どうしまして」
結局。その夜は、取り留めのない話だけをして終わったのだった。なんてことのない、いつもと同じ土曜日の夜。そう思っていたのである。
違和感の正体に気づいたのは。灯の恋人である、仁科謙一が――自宅で刺殺されて発見されてからのこと。
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