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梅雨入り宣言がされたのはいつのことだったか。先週のことだったような気がする。連日の雨で、すっかり彼女の傘に入ることに慣れてしまった。お互いの歩調もわかってきた。今日は会話が少ない。彼女も雨音だけを聞いているようだった。それを壊してしまうのに罪悪感を感じつつ話しかける。
「今日も入れてくれてありがとう」
「私がしたくてしていることです」
「君は、」
それが彼女を傷付けるとはわかっている。でも僕は尋ねたい。
「君は、本当に誰かを傘に入れたいの?」
どういうことですか?そう言いたげに眉をしかめる。ちょっとした仕草で何が言いたいかわかる関係だというのに、僕は彼女の名前を知らない。
「知らないおじさんでも、僕みたいなのでも?」
「先輩が自分をどんな奴だと言いたいのかわかりませんが。下心でもあるんですか?」
そう言われてふと考え込む。ざあ、と駅へ向かうバスが僕らの横を通り過ぎた。いや、と笑う。考え込んでしまう地点で、もう既にそういうことなのだ。
「そうかもしれないね」
そうですか、と相変わらず首筋に落ちた雨粒のように言う。あなたにこの傘は持たせませんよ、とでも言う風に傘の柄を握り直す。
「僕が言うのもなんだけど、相合傘ってかなり親密なものだ。それを誰彼構わずするのは危ないんじゃないかな」
「誰もいないよりはよっぽどマシです」
「本当に?」
「そうだって言ってますよね。何なんですか。今すぐ先輩を雨の中に残して行くことだってできるんですよ」
そこでまた気付く。僕がこんなことを言いたくなったのは、彼女の傘に誰も彼もが簡単に入ってほしくないと思っているからではないか。
「僕は、それでもいいと思うよ」
道端の家の軒下からびしゃびしゃと落ちる雨水が足にかかる。そういえば僕は、いつも歩道側を歩いていた。
「二人で雨に打たれてもいいと思ってる」
何言ってるんですかと馬鹿にするように息で笑う。
「だって、君が傘に入れたいのは君の親友だけだ」
ひたり、と彼女は足を止めた。紫がかった灰色の空から、僕の頭に雨が降り注ぐ。雨に打たれるのも、悪くない。
「環境が変われば友達との付き合い方も変わる、それは当たり前のことで、大人になるために必要なことかもしれない。君の決定が間違いだなんて思わない。でも僕らは、今すぐ大人にならなくたっていいんだ。少しずつ慣れていけばいい。いつか、雨音だけが響く傘も、君は好きになれる。だから今はまだ、」
口を閉じた。二人の間に雨音だけが響く。彼女の顔は傘に遮られて見えない。
「ごめん、ちょっとごちゃごちゃになってきた。言いたいのは要するに、君が傘に入れるのは、君にとって本当に大切な人だけでいい、代わりなんて作らなくていいと思う、ってことかな」
さあさあと雨が鳴っていた。どこか遠くから、低い雲を伝って踏切の音がした気がした。前髪から僕の目へ向かって水滴が滑り落ちて来る。目を瞑って開くと、そこに彼女はいなかった。僕を雨の中へ残して一人、駅へ歩き出していた。彼女は片方だけぽっかりと空いた傘を持って、雨音に紛れ去って行く。僕はそこでしばらく雨を見上げ雨音を聞いていた。久し振りにイヤホンを取り出す。雨音は聞こえなくなった。折り畳み傘を出す気にはなれない。僕も彼女と同じように、この雨に漏れて帰ろう。
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