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壱
「黒部の渓谷はの……飛騨の山を、真っ二つに割って、下っておるんじゃ。流れの源には、夏でも真白な、それはそれは険しい山が、屏風のように立ちはだかっているんじゃ。頂はいつも雲がかかっていて、儂ら樵だって滅多に見た事がねえだ。そんな険しい山じゃから、猟をするには、とっても良いんじゃよ。獣はたくさんおるでの。儂ら樵でも、時には猟に出たんじゃよ。ある時なんど、一日のうちに猿や狸など七十匹余り獲った事もあったぞ」
弥助翁はそこで言葉を切り、しわがれた声でからからと笑った。すると、後の方でガラガラと音がして戸が開き、離れ屋の中に、丸いにこやかな顔の女が入ってきた。手には、味噌を塗った握飯を二つ、笊に入れて持っている。女は離れに上がろうとせず、土間から
「おじいちゃん、ごはん持ってきただよ」
と呼びかけた。弥助は振り返り、微かに頷いただけで何も言わない。女は不思議そうな顔をして、笊を筵の上にそっと置くと踵を返す。そのまま、丁寧に戸を閉めて出て行った。
戸を背中にして女は首を傾げ、客でもあるのかと思ったに――と呟く。 だからわざわざ、握飯も二つにしておいたのに……。今日は特に大きく作った事だし、おじいちゃん独りで二つも食べるなんて、できっこない。あの離れに長い事置いておいたら、埃塗れになって食べられたもんじゃない。間を置いて、取りに戻ろう。女は頷き、足早に離れを後にした。
離れ屋の中で、弥助翁は背を丸めて座っている。その耳はぴくぴくとまるで生きているかのように動き、田圃の様子を見に行った女の足音を聞いているらしい。ひたひたという、草履の乾いた音が次第に遠くなって、山へと向かって飛ぶ鷹の鳴き声に掻き消されるくらいにまでなると、弥助翁はゆっくりと頭を持ち上げて、二つとも食べなさい――と勧めた。
「随分と長く話しておるから、腹も減っておろうに。儂はもう要らんによって喰いなさい」
すっ……と衣擦れの音がして、弥助翁の白髪が戦ぐ。束の間の沈黙を置き、翁は呟いた。
「もしお前が男じゃったら、どんなにしても山に連れて行くんじゃが……じゃが、谷には魔のおるところと、おらんところとがあるんじゃ。魔のおらっしゃる谷には、どんなに入ろうとしても人を、近付けてくれん」
震える手で湯呑を持ち上げ、口にあてがう弥助翁。水を口に流し込むと、喉仏が波打つ。ふっと息を吐いて湯呑を置き、大儀そうに口を拭ってから、ぽつりぽつりと言葉を紡いだ。
「たとえば――そう。あれは儂も、血気盛んな頃じゃったかァ……」
出し抜けに、鷹が甲高く鳴く。それに重なるようにして響く、力強い翼の音。弥助翁は、ふっと眉間に皺を寄せて、ゆっくりと声のした方に眼を向ける。頭と同じように真っ白な眉毛の奥で、鋭い瞳がぎらりと光っていた。鷹は一度鳴いたきり、何処かへ行ったようだ。
首を戻し、視線を落とす弥助翁。白髭に埋まっている唇を震わせて、静かに語り始めた。
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