第一章 特別な生徒

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うちの学校は中等部から大学まで、よほど不品行だったり成績が悪かったりしなければエスカレーター式ですんなり上がれるけれど、それじゃあ勉強のほうが不安だからとわたしは週に三回、予備校に通わされている。  学校の授業と違って、先生によってそれぞれ工夫を凝らされた予備校の授業はなかなか面白い。予備校に通うようになって、勉強の楽しさをわたしは知った。でも今日は数学の公式も英単語も、みんな頭を素通りしていく。  無意識に、周りにいる男の子たちを観察してしまう。斜め前の男の子は真面目一直線といった感じで、先生の話を熱心に聞いてひたすらノートに書き込みをしている。 その隣の男の子はまぁまずくない顔だが、付き合いたいってほどタイプでもない。芳乃は予備校で今の彼氏に出会ったっていうけれど、少なくともわたしの周囲には彼氏候補のひとりもいない。  将来の夢も目標もないのに、ただ親に言われるがまま勉強するだけのわたし。恋も希望もなく、ここに欲しいものはひとつもない。  どうせこのままつまらない大人になって、つまらない人生が待っているだけなんだ。 『悪いけれど今日は、ひとりで帰れる? 真緒の学校のPTAの活動で遅くなっちゃって』  終わった後いつも車で迎えに来てくれるお母さんに電話すると、素っ気ない返事が返ってきた。五歳年下の妹の真緒をわたしと同じ学校に入れたくて躍起になっている専業主婦のお母さんの「仕事」は、今のところPTAの活動ぐらいしかない。 「大丈夫。電車で帰れるから」  傘を差して歩き出すと、この時期らしくない四月中旬の冷たい夜気が制服のジャケットの隙間から忍び込んでくる。九時を過ぎたばかりの夜の世界、大人はみんな楽しそうだ。 お酒を飲んで酔っ払って大声を上げている人。人目も気にせずにぴったり歩くカップル。大学のサークルなのか、楽しいことしか世の中にないと信じているような若者たちの集団。  ひとりぼっちで駅までの道を歩くことが、ただそれだけのことが、お腹の底までひんやりと冷たくする。十七歳のわたしは、お酒を飲んで憂さ晴らしする権利すら与えられていない。芳乃みたいにすべてを受け入れてくれて、自分だけを特別に扱ってくれる素晴らしい存在もいない。  普通の女の子で別にいいと思ってたし、それが当たり前だとも思ってた。でも今わたしは、普通でいることがたまらなく苦痛でしかない。  わたしだって、芳乃みたいに特別な女の子になりたい。 「今、暇?」  いきなり声をかけられて、心臓がぎゅっと縮んだ。傘越しに振り返ると、ビニール傘を手にした男の人がにやにやとわたしを見下ろしている。歳の頃、たぶん三十半ば。顔はそんなに悪くないけれど、油断できないような険しさがあった。 「暇って言ったら、暇ですけど」  つい真面目に答えてしまう自分が嫌になる。ナンパ、それも制服姿なんて。この人は法律を破ることをなんとも思っていないのか。こういう大人も世の中にいることを知らないわけじゃなかったけれど、いざ自分のこととなるとひたすら戸惑ってどうしたらいいのかわからない。 「じゃあさ、ちょっと、そこでお茶していかない?」 「でも、家に帰らないといけないので」 「友だちと遊んでいくって言えば大丈夫だよ」  断る口実を咄嗟に思いつかなくて、わたしはその男とすぐ目の前にあったカフェに入ることになった。  わたしはカフェオレ、男はブレンドをオーダーして、彼は自分のことを一方的に話した。年齢は三十四歳。一流の広告代理店に勤めていて将来有望だということ。彼女は二か月前までいたけれど別れてしまって、今は募集中。 「募集中ならわたしみたいな女子高生じゃなくて、ちゃんとした大人の女の人を選べばいいじゃないですか」  言ってしまってから言い過ぎだと後悔した台詞に、男は大人の余裕を持って返してくれた。 「大人の女は難しいんだよ、みんな結婚! 結婚! 結婚! ってそればっか。焦り過ぎ。君みたいな若くてスレてない女の子のほうが、男は好きだよ」  そういうものなのか、とすとんと納得していた。そして、男は結婚を前提としたきちんとしたお付き合いじゃなくて、身体だけで繋がれる都合のいい関係を求めているだけだということも察した。  カフェを出て歩き出すと、もう十時を回っていた。 「この後、どうする?」 「どうするって、家、帰りますけど」 「ちょっとぐらい付き合ってよ」 「どこに付き合うんですか」 「ホテル。ね、最後まではしないからさ? どうせ君、バージンでしょ?」  ずばりと今いちばん気にしていることを言われて、このまますごすご帰りたくなかった。  きっとこの人は最後までしないと言っておいて最後までして、それでお金をくれる。つまり、エンコーだ。  それでもいいじゃないか、と思ってしまった。  彼氏もできない。勉強も運動もできない。だったらわたしが特別な女の子になるには、こんな方法しかない。 「いいですよ」  やったー、と男は少年のような歓声を上げた。  友だちとよく遊ぶ繁華街の外れに、その一角はある。ピンクやオレンジや青の派手な外壁が軒を連ねた、大人の空間。夜はいっそう更けて寒さは一段と厳しくなって、わたしはぶるりとひとつ大きな身震いをした。 すれ違う人たちはみんなどこか人目を忍んでいるように、俯き気味に歩く。どう見ても不倫にしか見えない歳の差カップル。電話しながら歩くいかにも風俗嬢っぽい女の子。制服姿のわたしに物珍しそうな視線を当てる中年のおじさん。  男と肩を並べて歩きながら、次第に不安がひたひたと心を浸していく。これからわたしは、特別な女の子になる。特別な女の子になるということは、普通の女の子でいるということを失うことだ。それがどういう意味を持つのか、今のわたしにはわからない。わからないから、怖い。 「ここでいい?」  男はピンクの外壁のホテルの前で足を止めた。休憩五千円~、宿泊九千円~という文字が夜の中でオレンジ色に輝いている。  頷いたわたしの背中に男が手を添える。大丈夫だよ、怖くないよ、と言うように。  怖い。  特別な女の子になるために必要なことだからって、やっぱり怖い。  だいいち、わたしだって初めては好きな人が、絶対いい。
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