あと1日

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あと1日

 今朝は幾分遅く起きた。枕元の目覚まし時計は既に九時半を過ぎている。  茂末は目を覚ますと、床の中で伸びをして上体を起こし、すぐさま両の掌を見つめる。それが癖になったらしい。  ──今日も生きとるわいな、ありがてえ。ナンマイダー……  てな具合に、柄にもなく神仏に感謝しつつ己の生命を噛み締めているのだ。 「あなた、お食事ですよー」  階下からトメの声が駆け上がる。相も変らぬ一本調子のトーンだ。  茂末は布団を畳んで一階へと急ぐ。  台所に面した和室に入り、黒檀でこしらえた重厚なテーブルの前にどっかと腰を下ろした。黒光りする光沢の天板にチラリと己の顔が映り込む。  食卓に着いた茂末の元に、すかさずトメが朝刊を差し出す。茂末はプイと故意にあさっての方を向いて右手を出す。トメは手に握らせてくれようとしたが、茂末はつかみ損ねた。手を出したまま「早くしねえか」と言わんばかりに舌打ちでトメの過失を責め立てる。と、トメは屈んで新聞を拾うと、もう一度同じ動作を繰り返す。今度は、まんまと茂末の手に乗った。さっそくぶつくさ悪態をつきながら開いて三面記事から読み始める。  いつもの朝の儀式を済ませると、茂末と入れ代わりにトメは寝室へと向かう。これも毎朝の慣わしである。  暫くしてトメは戻って来た。 「あなた、お布団、お上げになったんですね。言って……」  トメは茂末と目を合わせた途端、言葉を濁して一瞬だけ黙りこくった。「さあ、お食事にしましょうね」  茂末はトメを一瞥しただけでまた新聞に視線を落とした。  トメが味噌汁の碗を置くと、茂末は新聞を放り投げ、大きな節くれだった武骨な手で碗を鷲づかみに啜り、飯を装った茶碗を差し出されれば、もぎ取り、ぶっきらぼうに箸を握って口に放り込む。  ──男はこれでいいんじゃい!  トメは茂末の丁度ふた回り下で、今年、還暦だ。馴れ初めは、行き遅れて少々とうが立った大工の親方の娘を押し付けられただけの話である。ただ、親子ほど年回りの違うトメを茂末は憎からず思ってはいた。勿論それを表に出したことはない。口にせずとも、女は察して男の後に従えばいいだけのこと。それが男と女の道理というもの。「おめえに『ホ』の字よ」なんざ戯けたこと口に出来るかい。そんな女々しい仕業など虫唾が走るわい。自分は男なのだ、当然ではないか。  夫婦の間に子は出来なかった。もっとも、外には三人だけこさえてはいる。そのことでトメから小言ひとつ聞いたためしはない。男とは元来こんなものだ。甲斐性のない男なぞ一国一城の主は務まらん。茂末の持論に揺るぎはない。こんな些事などでとやかくぬかす女など女房の風上にも置けぬ。そんな女なら即刻離縁だ。その点、トメは流石だ、と己が女房の度量には素直に感服している。  しかるに、これまで己の所業をトメに悪いと思ったことは一度たりともない。だが、此間の心臓発作以来、自分のような豪放磊落を気取ってきた男も、寿命という二文字がちらほら脳裏を掠めるようになった。余命を意識してから全てが愛おしく思えてならない。自分でも随分と優しくなったと思う。トメもそのことは当然分かってくれているはずだ。  ──布団じゃて、上げてやっとろうが……  茂末は満足げに向かいのトメを一瞥した。 「あなた、今日は何時にお出掛けですの?」  茂末は黙って飯をかき込み続ける。 「明日じゃ! 初詣に行ってくるて……」  暫くして箸を休め顔をトメに向けると、唐突に怒鳴り付けた。「昌さんと亀さんが九時頃来るて、それまでに起こしてくれろや。朝メシはええ。オメエの雑煮もいらん」  自分の用件を済ますと、茂末はまた箸を動かし始める。 「明日でしたか……」 「そう言うたろうが!」  トメを睨み付け、舌打ちをした。 「分かりました」 「分かりゃあええ。忘れるなや!」   茂末は箸を置き、茶を啜ってから楊枝で歯を突きながらソッポを向く。「今日は孫に会いに行く。みやげ持って行くて、なんかみつくろって買って来いや」 「──わたしが……ですか?」 「んっ! ほかに……誰がおる? 文句あんのか!」 「いいえ。そういたしましょうね」
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