青を飲む少女

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 ワタシには、青いものを左手の薬指でなぞる癖がある。何度も、何度も、何度も。  ――――――――――  ふっと見上げると、空はとても晴れていた。晴れて晴れて晴れすぎて、その青が眩しくて、目が痛かった。空の色なんか、なくなってしまえばいいのに。そんなことを心の中で毒づく。  とっくに出席日数が足りなくなって留年の決まっていたわたしは、学校に行く気になんてなれずに、ふらふらと公園へ向かった。高校から少し離れた場所にある寂れた公園には、いつでもほとんど人がいないし、なにより同じ高校の生徒が滅多に来ない。わたしの行きつけの公園だ。  お気に入りの青いベンチへ向かおうとそちらへ目をやると、制服を着た少女が座って俯いていた。名前も思いだせないし言葉を交わしたこともないけれど、垂れた前髪の隙間に見えたその顔は、クラスメイトのものだった。  声をかけてみようと思って、彼女に近寄る。こちらに気づく様子はなく、彼女は俯いたまま、青いベンチの隅を左手の薬指で撫でている。わたしは、その細い指に見とれてしまった。  彼女の撫でているところは、白かった。誰かが白いペンキでも落としてしまったのだろうか。青いベンチの中のその白い部分は、小さな雲がうかんでいるみたいに見えた。  彼女が少し指をずらして、今度は青い部分をなぞる。  その青かった場所が真っ白になって、わたしは目をみはった。もしかして、ペンキが塗りたてだったのだろうか。けれど、少し色褪せているその青いペンキが塗りたてだとは、到底思えない。それに、彼女は指を強く擦りつけているようにも見えない。  わたしはその指と、消えていく青をもっとよく見ようとして、思わず身を乗りだした。  彼女が顔を上げて、わたしの存在に気づく。わたしは慌てて身を引きおこし、彼女を見た。その光のない視線に自分の体が吸いこまれていくような感覚を覚えて、思わず声を震わせながら、自分の名前を告げた。 「あ、えっと、わたしは同じクラスの桜木イコ……」  彼女の視線は少しだけ、緩んだ。 「ワタシは、一ノ瀬ウレイ」 「ああ……、ごめんね、わたし、クラスメイトの名前、覚えられなくてさ……」  そう言いながら、またわたしはウレイの指を見てしまう。ウレイは、なんだかさらさらと崩れていきそうな笑顔を浮かべて、どこか恥ずかしそうに口を開いた。 「青を飲むの、見つかっちゃった」 「青を……、飲む……?」  ウレイの言葉の意味がわからず、思わずおうむがえしに呟く。 「そう。青がワタシのお薬なの。精神安定剤。こうやってね、」  そう言いながら、ウレイは左手の薬指で青いベンチの背もたれを撫でた。その場所の青が、ウレイの薬指に吸収されるかのように、すうっと薄まった。ウレイが指を離すと、さっきまで青かった場所が白くなっている。それは塗装が剥げたというわけではない。なんの混じりっけもない真っ白な色に変わっていた。 「指から、青を飲むの。そしたら少し、気持ちが落ちつくんだ」  青を飲む。  その行為は、わたしの理解を超えていた。けれど、なぜだかわたしは、それを疑う気持ちをまったく持てなかった。 「飲む……、ってことは、味もあるの?」 「うん。青って、ほんのり甘いの。とってもおいしいよ」  わたしは精神科で処方されている精神安定剤を思いだす。白くて小さな丸い錠剤。口の中で噛みくだくと少しだけ甘くて、わたしはその味が好きだった。 「わたしも精神安定剤を飲んでるんだけど、それもちょっと甘くておいしいよ」 「それ、気になるなあ。でもワタシ、青しか飲めないんだ」  そう言いながら笑う彼女の声も、さらさらと崩れていくように聴こえた。  ――――――――――  なんだか突然ウレイに会いたくなったわたしは、あの公園にふらふらと歩いていった。  公園にウレイの姿はなかった。ベンチに腰をおろしてなんとなく背もたれに目をやると、白い部分が増えている。わたしはその白のすぐ隣の青い部分を薬指でこすってみたけれど、青は青のままだ。  ウレイは青が飲める。わたしは青が飲めない。  なんだか頭がぼんやりして、目をつむる。瞼の裏にはゆっくりと、ウレイの細い薬指が浮かびあがった。けれどわたしの瞼の裏には、青がない。  彼女の指は青を探してさまよっている。わたしが散らばしてしまった錠剤を探して、枕元で手をさまよわせるのと、似ていた。 「晴れた日の空って、青いよね」  降りかかった声にはっとして顔をあげると、ウレイが立っていた。ウレイは相変わらず光のない視線でわたしを見据えながら、ゆっくりと空に左手を伸ばす。そしてそのまま、その薬指で空中をなぞった。  空にぽっかり穴が空いたみたいに、白い空間ができた。 「空の青は、飲みすぎないように気をつけてるの。晴れてるとどこまでも青いから、つい飲みすぎちゃいそうになるけど、空が真っ白になっちゃったら、みんな困っちゃうでしょ?」  みんな、って誰だろう。わたしは空が真っ白になっても困らないのに。なんだかウレイにとっての「みんな」から仲間はずれにされたような、妙な気持ちを覚えてしまう。 「それにこういうの、オーバードーズって、言うんだよね……」  誰へともなく投げかけるようなその声は、なんだか寂しく響いて、わたしの鼓膜を甘噛みしていった。 「わたし、空なんて真っ白になっちゃえばいいと思う」  青を吸いとられた白い空間を見つめながら、わたしは呟いた。空の青はいつも眩しくて、目に突きささって、痛いから。 「ウレイはそう思ったりはしない?」と訊こうとしたけれど、それよりも早くウレイは小さな声でなにかを言った。聞きとれなくて、わたしはウレイの顔を見ようとしたけれど、ウレイはわたしに背を向けてすたすたと公園から出ていってしまった。  追いかけようかと少しだけ迷ったけれど、また頭がぼんやりしてきて。わたしはそのまま睡魔に意識を差しだした。  ―――――――――― 「……!」  自分の叫び声で、わたしは目を覚ました。誰かの名前を呼んだような気がするけれど思いだせず、全身を濡らす冷や汗に体を震わせる。次第に意識がはっきりしてきて、自分があのまま公園のベンチで眠ってしまったのだと知った。  立ちあがってふっと空を見上げると、空が真っ白になっていた。  脳裏にウレイの声と自分の声が、交互に響く。  空が真っ白になっちゃったら、みんな困っちゃうでしょ……。空なんて真っ白になっちゃえばいいと思う……。オーバードーズって、言うんだよね……。  みんな困っちゃう。でも、わたしは望んだ。ウレイが叶えてくれた。  彼女は、青を、飲みすぎた。 「空の青をぜんぶ飲んだら、どうなっちゃうの?」  わたしの問いかけに応える声は、ない。  真っ白になった空を、また見上げる。  綺麗、だと思った。そんな自分の思考がなんだかおかしくて、笑えてきて、なのに涙が堰を切って、切り刻んで、溢れだした。  わたしのこの涙も、ウレイの笑顔のように、さらさらと崩れていってくれたらいいのに。  いくら涙で視界がぼやけても、空が白いのは変わらなかった。この真っ白な空は、ウレイが遺してくれた形見だ……。  そんな馬鹿げたことを考えながら、わたしはいつまでも涙をこぼしつづけた。  ――――――――――  わたしには、青い色を左手の薬指でなぞる癖がある。何度も、何度も、何度も。  叶うのならわたしも、空の青をなぞってみたかった。
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