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雨音ヘアサロン
店のなかは閑古鳥が鳴いていた。
カットやカラーの予約も入っておらず、外は十二月の冷たい雨。
音楽も流していない店内に、雨音が紡ぎ出す不規則なメロディが流れている。
私はセットチェアの脇でため息をついて、掃除でも始めようかと鏡台のよこの戸棚に手を伸ばす。そこに、カランと軽やかなドアベルとともにひとりの女性がやってきた。
「いらっしゃいませ」
戸に伸ばしかけた手を止めて、ゆっくりとカウンターに歩み寄った。
入ってきたのは、ボサボサの髪を腰元まで伸ばした若い女性。伸びすぎた前髪の隙間から覗く目には警戒心のようなものが見て取れる。
「本日はカットのご来店ですか?」
女性がコクリと頷くのを見て「こちらにどうぞ」とセットチェアへ案内する。
「カットは、どういたしますか?」
鏡の向こうの女性と向かい合う。彼女は一瞬だけ目を合わせると、気まずそうに視線を伏せて言った。
「傷んでいるところとかを、適当に切って頂ければ」
「かしこまりました。まずはシャンプーをさせて頂きますね」
女性をシャンプー台へ誘い、腰かけた彼女の髪をすくいあげる。ゴワゴワと指に絡まるような手触りで、手にした櫛が通らない。目の粗い櫛を取り出しながら、ゆっくりと台の上に髪の毛を広げていく。
「お湯、熱かったらおっしゃってくださいね」
彼女の後頭部が縦に小さく動いたことを確認し、シャワーを流す。一通りお湯ですすいだのち、しっかりとシャンプーを馴染ませた。それでも髪はギシギシと固く、指に何度となくひっかかった。
優しく全体にシャンプーを揉みこんで、再びシャワーで流す。
タオルを二枚使い髪からしたたる水滴をふき取ると、再びセットチェアへ戻った。髪に覆われていた、こぶりな顔が印象的であった。
「髪の長さの希望はございますか?」
「いえ、特に。切って来いと言われただけですから」
「言われただけといいますと?」
「母が、お見合いの前に切って来いと」
お見合いという言葉を口にした彼女の声は低く沈んでいる。それだけで、彼女自身が望んだお見合いではないのだろうという察しはついた。
「では、痛んだ部分をカットしながら長さを整えていきますね」
「はい」
丁寧に、痛んだ髪を切り落としていく。
ハサミが髪を切り落とす冷え冷えとした音だけが、美容院にこだましている。ラジオか音楽を流すべきか、束の間迷った。けれどそれは、空虚さに無理やり無粋な色を押し付けるようなものかもしれない。
私はうつむいたまま黙って座ったまま微動だにしない女性を鏡越しに覗き込んだ。
パッチリとした大きな瞳には、憂いの色が満ちている。すっと通った鼻筋に整った鼻。白い肌に良く映える紅色の唇。着飾れば大層美しいであろう彼女は、飾り気のないシャツに使い古したジーンズと、みすぼらしい恰好をしていた。
「うちって、貧乏なんです」
不意に、女性が口を開いた。
「父は一生懸命働いていますけど、お給料は良くなくて。母も節約しているんですが、高校生と中学生の弟たちにはそれなりにお金がかかって。私も働き始めましたが、まだまだ全然……。髪、ひどい状態ですよね。うちでは皆、髪を洗うのにシャンプーを使わないんです。固形石鹸のほうがずっと安いから」
雨音と彼女の声だけが、白熱灯に照らし出された美容室のなかを泳いだ。
「先日、母が見合いの話を持ってきたんです。親戚の知り合いで、お金持ちの家の一人息子だそうです」
「あら、じゃあ玉の輿ですか?」
私の言葉に、女性は首をかすかに左右に振った。
「そうかもしれません。でも写真でしか見たことのない男性と、結婚を前提に付き合うなんて前時代的だと思うんです。何より私、結婚願望とかありませんし」
「お断りすることは出来ないんですか?」
「両親は断っても良いと言っています。でもそれはきっと建て前で。うちには弟たちが大学に進学させるだけのお金もありません。そんなときに資産家との見合いのお話なんて、出来が良すぎる気がするんです」
目の粗い櫛で苦労しながら、彼女の髪をかき分けカットしていく。美容院独特の雰囲気がそうさせるのか、雨音が心情の吐露を誘うのか、彼女は少しずつ饒舌になっていった。
「私が我慢すれば、きっと相手は弟たちの学費も工面してくれるでしょう。子供を授かったのが遅かったので、両親ももう若くはありませんから、後のことも考えないとだし。家族への恩返しのためにもお見合いを受けるべきだと思って、それで……」
「お客様の気持ちはどうなのでしょうか? 例えばその男性の写真を見て、素敵だなって思ったりはしなかったんですか?」
「悪い人では、なさそうかなって。それくらいです」
「そうですか」
望まぬお見合いに行くための美容院。気持ちが上向くはずはなかった。虚しく降りしきる雨の滴は、まるで彼女の心模様のようだ。
覆うような髪がカットされ、彼女の小さな顔が少しずつ露出されていく。
「あの、もしよかったらショートカットにしませんか?」
「ショートカット、ですか?」
髪の長いお客様に、この寒い季節にショートカットを提案するのはどうなのか。自分でもそう思ってしまうけれど、言わずにはいられなかった。
「お客さん、お顔が小さくって目もパッチリいるので、きっと似合うと思うんです。それに、重たい髪の毛をサッパリさせたら、気持ちも少し晴れるんじゃないかなって」
「……」
「ほんとこれはお節介ですけれど……。お客様はもっとわがままになっていいと思います。おうちのことやお金のことは難しい問題ですけど、それと結婚は別物です。女にとって、ううん人にとって結婚ってそういうのじゃないと思います」
「だけど」
「別に、今回のお見合いを断れってわけじゃないんです。家族のことを思うお客様の気持ちも素敵だと思います。ただ、もう少しわがままになっても良いんじゃないかなって」
鏡の向こうで唇を噛んだ女性を、まっすぐに見つめた。
「せっかくこうして髪を整えにいらっしゃったんです。お見合いの相手とは会ってみてもいいと思います。けど、その先はお客様次第。相手が気に入らなかったら、はっきり断ったっていいんですよ、きっと」
「それじゃ、皆が困ってしまいます」
「それは、お客様がそう感じているだけかもしれません。お客様は今、思いつめてしまっているように見えます。そこは一端、この傷んだ髪と一緒にリセットしちゃいましょう。いかがですか?」
「私は、でも」
「会ってみたら、お相手は最高に良い男かもそれか、。案外まぁまぁの男性の可能性もあります。でも、ちょっと無いなって感じだったら断っちゃう。それでいいじゃないですか。そのための準備です。前を向くために、気持ちよく髪型を変えてみませんか?」
しばしの沈黙ののち、彼女が頷いて目を閉じた。
その髪に櫛をあて、首筋の中間で思い切ってカットしていく。サイドも揃え耳にかかるくらいの長さに調整し、前髪は長めに残す。こうすれば、彼女は視線を隠したいときは髪を下ろせばいいし、横にながしたりワックスで遊ばせることも出来る。
分厚い髪の束をセニングシザーとスライドで調整し、毛先に軽さを作る。再びハサミで細かい部分を調整していく。
調髪が終わるとシャンプー台に移り、髪を一通り流すとセットチェアに戻ってブローする。セットが終わると、私は女性の両肩に手を置いて声をかけた。
「出来ましたよ」
彼女が、ゆっくりと目を開く。
「わぁ……!」
短く感嘆の声をあげた女性が、初めて笑顔を見せた。
大きな目と通った鼻筋に、ショートカットが良く似合っている。
「こんなに綺麗にして頂いたの、初めてです」
「お客様はもともとお綺麗なんですよ。私はちょっと、お手伝いをしただけです」
「なんだか少し、心がすっきりした気がします。どうもありがとうございます」
会計を終えた彼女が、何度も会釈をして去っていく。
心の中に、勝手なことを言ってしまったという気持ちも微かにあった。だが、彼女の笑みがそんな後ろめたい気持ちをあっという間にかき消してくれた。
それから四か月後、あの日のように雨音がリズムを奏でる空模様の日に、彼女が再びやってきた。ショートカットに揃えた髪は、肩にかかるほどに伸びている。
セットチェアに腰かけると、彼女ははにかみながら微笑んだ。
「お久しぶりです」
「四か月ぶりですね。お元気でしたか?」
「覚えていてくださったんですね。嬉しいです」
私は「もちろんですよ」と言いながら彼女の髪に櫛をあてた。すぅっと、櫛が髪の毛を滑り、優しい手触りとともにすんなりととける。指で触れた髪はきめ細かく、四か月前とはすっかり様子が変わっていた。
「彼が、シャンプーをプレゼントしてくれたんです」
「彼と言いますと、お見合いで出会ったひとですか?」
私の問いかけに、彼女は恥ずかしそうに小さく頷いた。
「そうですか。きっと素敵な彼氏さんなんでしょうね」
「美容師さんの言った通りでした」
「私の?」
「はい。胸を張って最高とは言い切れないけれど……まぁまぁな彼かな、なんて」
そう言いながらも、彼女の顔には隠しきれない喜色が浮かんでいた。きっとお相手の男性は、彼女にとってまぁまぁなどではなく、最高の相手だったのだろう。
「それは良かったですね。実は私もあんな風にドンと背中を押してしまったので、こっそり心配だったんですよ。でもお客様のお顔を見て、安心しました」
「あのときは、ホント恥ずかしいです。ありがとうございました」
「いいえ。それで、今日のカットはどういたしますか?」
「あの日と同じショートにしてください。彼が、似合うと言ってくれたので」
彼女が、満面の笑みを浮かべて言った。
「わかりました」
鏡に映る彼女の表情から、あの日の憂いはきれいに消えてなくなっている。
手櫛でとけるほどに柔らかになった髪と同様に、彼女の心もまた優しく解きほぐされていったのだろう。
軽快に鳴り響く雨音とハサミの合唱が、美容室のなかを彩っていった。
「はい、出来ましたよ」
「ありがとうございます。やっぱり、お姉さんに切って頂くのが一番素敵です」
会計を済ませた彼女が、照れくさそうに口を開いた。
「私、宮瀬って言います。また来てもいいですか?」
「もちろんです。いつでもお待ちしております、宮瀬さん」
「はい! 苗字は、その……もうすぐ変わるかもなんですけど、これからもどうぞよろしくお願いいたします!」
深々と一礼した彼女が傘を手にドアを開いた。そのまま通りに歩み出る。宮瀬さんが傘を開くと、たちまちそこの雨音のコーラスが鳴った。それはまるで、彼女を祝福しているようである。
大きな傘だ。きっと、雨の日は出会った人とこの傘で寄り添い歩くこともあるだろう。
一度手を振って、宮瀬さんが去っていく。分厚い雲の遠い隙間から覗く青空と陽光に目を細めて、私は彼女の背中にそっと手を振り返した。
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