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12 薬指の約束【うお座】
最近、りつ先生が輝いている。教えてくれるときの声も大きくなったし、前みたいに誰かのいじわるなからかいに、たじろがなくなった。
りつ先生は絵画教室の男の先生で、私はそこで学ぶ生徒のひとりだ。
生徒といっても、これから美大を受験しようというわけではない。来週には50歳になる主婦の、ちょっとした趣味で通っているだけ。
りつ先生は言わないけれど、最近ご結婚されたらしい。左手の薬指に指輪をするようになった。前回、教室で絵を描きながら、先生の手を盗み見て気づいたのだ。
日頃アクセサリーを身につけない男性の結婚指輪に気づいたとき、なぜだか薬指から色気が漂っているように思った時期があった。
それは、私が今よりずっとずっと世間知らずだった頃のこと――。
どうしようもなくせつなくて、だからこそ愛しく感じた恋がある。
20年以上前だった。
私は妻子ある男性に、夢中で恋をしていた。会社の先輩だった。
毎朝、彼のほうからさわやかな笑顔で「おはよう」と言ってくれた。ほかの先輩が、彼が私をかわいいと言っていると教えてくれた。
流されるように、私はその人を好きになってしまったのだ。
出逢うのが遅すぎたなんて、何かの歌詞にありそうな気持ちで、お互いに惹かれあった。
彼の薬指のリングが、よけいにそうさせたのかもしれない。
彼はとにかくやさしくて、仕事でストレスを抱える私をいつも気遣ってくれて、ときにアドバイスをくれた。
女子受けのするレストランにも雑貨屋さんにもジュエリーショップにも、とても詳しかった。それは素朴な20代だった私を、デートとはこういうものだと浮かれさせるには充分すぎた。
けれど私は常に罪悪感に苛まれ、窮屈な心で彼を見つめていた。
私といても、彼は決して指輪をはずさなかった。
だからこそ、やさしくされるたび愛しさがこみ上げ、同時に深い哀しみに押しつぶされそうになった。実に不甲斐ない自分が大嫌いで、なのに彼はかけがえのない人だった。
私たちは2年つきあって、彼が遠くに転勤になったとき、関係を終えた。
疲れ果てていた。もう終わりにしなければと思っていた。彼に当たり散らすことも多くなっていた。
それでもなぜか、年賀状だけの関係はつづいて、お互いの近況はよくわかっている。とても不思議なつきあい、いや、腐れ縁だ。
その間に私は結婚し、仕事を辞め、子どもが生まれた。年賀状で報告をすると、翌年の彼からの年賀状は、喜びと祝福であふれていた。
お正月の家族団らんの中、夫が振り分ける年賀状に、元カレからのものも混ざっているなんて、もちろん夫はまるで知らない。
夫に、ごめんなさいと思うたび、あさりを食べていたら砂利を噛んでしまったときのように、あるいはマイクがハウリングしたときのように、胸がきゅっとなっては、ざわついた。
絵画教室では6人の生徒が、それぞれの絵を描いていた。
みな無言で、静けさの中で、思い思いの作品を。
ただ鉛筆の走る音だけが、時の流れを叫んでいた。そこにある命を写し取りながら。
「霧子さん、デッサンすごく上達されましたね」
静寂を割って、りつ先生が言った。
後ろから、そっと話しかけてくれた先生の声は、鉛筆の音よりもずっとぬくもりがあった。
「でも、いったいどなたを描いているんですか? 静物のモチーフを前に」
リンゴやパンに向きあいながら、私はスケッチブックに彼の顔を描いている。
20数年前の、記憶の中の彼を。
「ええ……ちょっと思い出を描きたくて」
「そうですか……!」
私の正面に来てこちらの顔を見たりつ先生は、すぐさまティッシュペーパーを箱ごと渡してくれた。
涙が止まらない。
こんな形でしか、私は彼を悼むことができない。
生徒たちの手が止まり、みな、こちらを見ているのがわかった。静まり返った教室に、私の嗚咽だけが響く。
今年、彼からの年賀状は来なかった。
ところが昨日、面識のない奥さまから手紙が届いた。
不穏な予感がして、ひとりの部屋で封を開けた。
――お世話になった皆様へ 心からお礼申し上げます
印字されたその訃報が、鋭く胸を貫いた。
四十九日が過ぎたという。まだ53歳だった。
彼は病を、私に隠していたのだ。
あの頃の過ちのせいで、彼にだけ罰が当たってしまったのだろうか。
罪を一手に引き受けて、彼は旅立ってしまったのだろうか。
そして私は深い懺悔の念を抱く。
何もご存じない奥さまに、私にまで辛い知らせを送らせてしまって……。
「大丈夫ですか、霧子さん」
帰り際、りつ先生が話しかけてくれた。
「すみませんでした……もう平気です。それより、りつ先生、ご結婚おめでとうございます」
「え? ああ、これですね? ありがとうございます」
恥ずかしそうに左手をひらひらさせて、りつ先生は笑った。
「先生、人生は案外短くて、別れは突然やってくるみたいです。奥さま、たいせつにしてあげてくださいね」
「あっ、はい! 精一杯、だいじにします!」
「それじゃ、また。ありがとうございました」
教室を出て、自分の左手の薬指を眺める。金のリングは、過去の夫からの、未来への約束。
幸せになろうと、私たちは誓いあったのだ。
さあ、家に帰ったら、私は夫の妻。かわいい娘の、たったひとりの母親。
涙を拭いて、歩かなければ。
表はまだ冷たい春風。それでも陽射しはあたたかい。
彼はどこかにいるような気がする。この風に、あの光に。
そして私は今日も歩いている。40代最後の春を。
彼の生きられなかった、今日という日を――。
了
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