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4 玉ねぎの魔法【かに座】
スーパーで鶏肉と玉ねぎを買った。あとの材料は家にある。
そうして日曜の昼下がり、ひとり暮らしのアパートのキッチンで、包丁を研いでいる。砥石を使って、ごりごりと。
包丁研ぎは神経までもが研ぎ澄まされて、心の中を整理できるから好きだ。
先月、幼なじみで同級生の淳史が、ロンドンから帰国した。すぐに淳史の行きつけの居酒屋で待ちあわせて、ふたりでおおいに飲んだ。
淳史は服のバイヤーで、海外出張の多いひとり暮らしだ。その健康が気になって、私はいつも世話を焼きたくなってしまう。
あの夜も、ビールと枝豆しか手をつけないから、サラダとお肉も食べなさいとか、冷ややっこも食べなさいとか、口うるさく言ってしまった。
だってたいせつな友だちだから。
へらへら笑って言うとおりにした淳史は、翌日が二十七歳の誕生日だった。
センス抜群の淳史へのプレゼントは毎年悩むものの、スターウォーズの手ぬぐいをあげたら、かなり喜んでくれた。
そうしてそのまま、愛の告白を受けたものの――私は丁重にお断りをした。
研いだ包丁を洗ってから、玉ねぎを切っていく。今夜はカレーだ。
休日のカレーは、スパイスの配合を調整してつくると決めている。
いつか家族ができたら食べさせてあげるのが、ささやかな夢だったりする。
私には大好きな彼がいる。
といっても、この想いを打ち明ける気はない。
カレーを食べてもらえやしない、不毛な恋だけれど、淳史の気持ちを断った。
まったく予想もしていなかった、その気持ちを。
私が想うのは、十八歳年上の和真さんだ。
和真さんという呼び名は、心の中でだけ。会社の上司で、いつもは「課長」と呼んでいる。
課長は課長らしく、私が仕事に行きづまったときには、いつも適格なアドバイスをくれる。
見当違いのクレームを受けたときには、私のことをちゃんと守ってくれる。
そんな和真さんには、たいせつな妻子がいる。仲がいいことは知っている。
私は彼の家庭を壊そうなんて気は、まったくない。
いいお父さんで、いい夫さんである、そんな和真さんだからこそ、好きになってしまった。
くし形に切った玉ねぎが、やたらと鼻につんときて、目にしみる。
包丁は研いだのに、なんでこんなに泣けてくるんだろう。
淳史は私なんかに断られて、心で泣いたりするんだろうか。
世の中の小学生が夏休みに入るころ、私の誕生日がやって来る。
和真さんとの歳の差が、ほんのいっときだけ縮まる。
だけど来月にはすぐ、和真さんの誕生日だ。
歳の差、妻子持ち、片想い。
いったいこの秘めた恋を、いつまで私はつづけるのだろう。
洟をすすって今度はニンジンを切ろうとしたところで、淳史からのLINEが届いた。
――芙美の誕生日、もし一人だったら祝わせて!
ほかの誰かを好きな芙美でも、オレはやっぱり、好きなんだよね。
いつになく直球で来た。
たったそれだけの文章に、涙がにじむのは玉ねぎのせいだ。
返信はすぐにはしない。
ちょっと焦らして……いや、そんな小細工は必要ない。
――これからカレー、食べにおいでよ。
それだけ返した。
今の精一杯の、ありったけの想いをこめて。
了
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