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過去のお話。
中学校の音楽室で黒いグラウンドピアノを優雅に引いている中学二年生の沙也加。
放課後のこの時間、吹奏楽部は試験休みで活動をしていない。吹奏楽部に所属しピアノを担当していた沙也加は幼少の頃から音楽を奏でるのが好きだった。
音楽室に響き渡る音色。学校の外にも微かに漏れていたピアノ鍵盤を叩く音。
二歳年上の兄はこの春から高校に通い始めていた、もう学校で会う事もなく自由な学校生活を遅れている現在の沙也加。
家ではやはりお姉ちゃんと呼ばれている、もう多分一生このままだ。あれが姉のことを妹と呼ぶ日は一生来ない、どう見たって今では兄の方が歳上に見える、不思議な現象となって少し沙也加を困らせる存在。
音楽室のドアが開く音。
「沙也加一緒に帰ろ」
同じクラスの久美が一緒に帰ろうと誘ってくれた、ピアノ鍵盤を閉じカバンを持って音楽室を後にする沙也加。
「でね、同じクラスの飯田くんが面白くってさ」
季節は初夏の六月。満開だった四月の桜はもうかなり前に散って青々しい草木が夏に向けて準備段階に入っていた。空には六月の雲が浮かんでおり青い部分が地球を感じさせる。
「沙也加はテストの点数どうだった?」
久美に問われ沙也加は微笑するのみ、聞くまでもない質問をしたことを久美は後悔し始め、自分の点数はこんなに悪かったと沙也加に愚痴をこぼしている。
聞き役に徹する賢い女の子、自分の話はあまりしない、他人の話を聞いている方が面白かった。
「沙也加のお兄ちゃんってどこの高校通ってるの?」
デリケートな部分に土足で入り込まれた気がして少し顔の表情が曇る沙也加。
「てかさ、前に噂で聞いたんだけど沙也加の弟が中学校にいるんじゃないかって少し噂になったことがあったらしいよ、沙也加って二人兄弟なんでしょ? お兄ちゃんだけだよね?」
隣を歩いて頷く優等生。
そうこうしているうちに久美とは別れ一人自宅へと帰ってゆく沙也加。
考え事をしながら自宅一軒家を目指す。一つの考え事。ある一つの考え事。
夕焼けが過ぎていき空には薄く闇が広がりつつある、ぼんやりと浮かんだ月の形が満月ではない形をしており巷で言う三日月型、どこか欠けた形をしていた。
家には正直帰りたくない沙也加。姉を演じることの無意味さに心底嫌気がさしていた。それでもあれの前ではニコニコ笑って姉を演じ切らなければならない。
もう数歩歩けば自宅という所まで来た。目の前に映る大きな白い一軒家、あの中にあれと形容する兄が確かに存在し、自分の事をお姉ちゃんとしっかりとした言葉を持って呼んでくる。
他人から見れば非常に不気味な光景に映るだろう。実の兄が、早く生まれた兄が自分の事を姉と呼んでくるのだ。年齢の概念をぶち壊した常軌を逸した行動、あれは頭が狂っていると言わざるを得ない。
自宅玄関前ドアノブに手を掛けた沙也加。一瞬で表情を変えいつもの姉を演じる体勢に入る。心が死んでいくのがはっきりとわかる、徐々にである、深い沼に沈んでいくかの如くゆっくりと確実に心は沈みつつある。
深呼吸してドアノブをゆっくりと開ける、音もせずに大きなドアは開き静かに自宅へと侵入する沙也加、灯のついていない玄関、三人分の履き潰した靴、あってもなくてもどうでもいい小さな観葉植物。
饐えた匂いがした。はっきりと饐えた匂いがした。
靴の匂いでもない、部屋の匂いでもない、観葉植物の匂いでもない、この家自体の饐えた匂い。
もう匂いに慣れていた沙也加でも今日の匂いは時別なものだった。微かに混じるカレーの匂い、激臭となって沙也加の鼻腔を刺激する。こんなにも自宅は臭かった。途端に不安になり室内への一歩を踏み出せないでいる心か弱き者。
息を止めて玄関を横切り階段を駆け上がった、自室に勢いよく入室すると鼻と口から新鮮な空気を吸う。沙也加の匂いとなって自室に存在している自分の匂い、安堵の表情を見せベットに腰掛ける。
ハッとする自分。自殺願望の片鱗。こんな些細な日常に自死への願望がうねりを巻いている。心の葛藤となって不意に気づいた死ねばいいんだという気持ち。高く望みを持つ、死への望み、楽になれると少し思った。
一階から母親の呼ぶ声がする、夕飯のカレーを食べろという意味らしい。兄は今自室かと思った。隣の自室でいつも何をしているのか、漫画は描いているのだろうか。
いつものような普段通りの表情を作り一階へと降りる沙也加。
この日の階段は異様に長く感じた、途方もない距離の下方向への入り口、一生かかっても一階には到達しないのではないかと考えはじめ階段途中で引き戻そうか一瞬考えてしまう。
微かに感じ取れるカレーの匂い、指し示すスパイスの効いた南方料理、鼻を効かせ一歩一歩階段をゆっくりと降りていき一階に到着した。
リビングのドアを開ける手が微かに震えている。もう末期症状として身体に現れはじめていた。その事実に愕然とする沙也加。
心が潰れる感触が確かに分かり、鼻の奥ら辺が痛い感覚、手足に力が入らない、目頭が途端に熱くなる、髪の毛が逆立っているのがよく分かる。
「お母さん今日は夕飯いらない、もう寝るね」
ドア越しに母親にそう言う沙也加。
「あらそう、ずいぶん早いのねおやすみなさい」
元来た道を上がって行く、あんなに途方もない距離だと思っていた階段は数秒で二階に到達し短い廊下の先に兄の自室が見える。
禍々しい何かを放ちながらそこに確かに存在する異界への扉。次元の歪みが現実世界を折り曲げ兄の部屋はきっと混沌としている。その光景がはっきりと沙也加には想像できる。
白紙の漫画原稿に埃をかぶったGペン、インク瓶のキャップ部分はガチガチに固まり、古い漫画本が書棚に雑然と並べられ、カーテンの締め切られた室内に月光すらも届かない静かな空間。
ネクストワールド来世を生きる準備をしているようにしか沙也加には映らない。
あ、来世を生きるのは自分かとふと思った。
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