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 過去のお話。  沙也加自殺決行の二ヶ月前。  深夜。トイレへと向かう二十二歳の沙也加。  長方形の何かを持ち数分後。トイレ内で静かにうなだれる沙也加の姿。  右手に持った妊娠検査薬にはくっきりと縦線が表示されており、新たな命を身ごもった証拠。嘘偽りない正義の縦線となって沙也加の目には映っている。  途端に吐き気がこみ上げてきて便器内に少量吐いた。  頭の中に自殺の二文字が浮かび上がり、目元薄く便器内の吐瀉物を一心に眺める。  前々から自分がおかしいことには気付いていた。頭の狂った女性を好きになってくれる人などいない、世間にも必要とはされていない、ただ異常なほどに兄からは愛され、歪んだ愛の形となって張り詰めた糸はある日を境に途切れた。  白い陶器製の便器が白い色となって確かにそこに存在している光景。白いトイレットペーパーもあって。白い恋人というお菓子は美味しいんだよと頭の中で一人感想を言う。  吐瀉物を流しトイレから出て自室へと向かう。電気の付いていない部屋、真っ暗な部屋、静かにベットに潜り込むと枕に顔を押し当てた。  涙が出ない不思議。  産むという選択肢は存在しない、自分の中の考えでは存在しない、堕すという行為もなんだか嫌な気がする、だったら死ぬしかない。自分が死ぬしかない。  死ぬのは痛いのだろうかと色々と考え始め、午前一時の不気味な静けさが今はもう怖くて堪らない。朝になれば気が晴れるかというとそういった事でもなくて。  人間が自分の体内に生成し始めているという事実が。細胞分裂を繰り返し手足頭心臓と出来上がっていく様が異常に恐ろしくて。  今現在目をつぶっている目の前は暗闇が広がり。目を開け放っても暗闇はずっと続くのみ。この世界は本当は暗闇で出来上がっている、そういった確かな真実が、確実に沙也加の心臓をゆっくりと潰していく。  自宅外には闇夜が広がり頭上には月は見えない、曇りの天候で厚い雲が空を覆っている、そうはっきりと外の光景が頭の中に思い浮かぶ沙也加。  窓は厚手のカーテンが覆い室内は真っ暗という印象が強い。  今この瞬間にもやはり細胞分裂は起こり子宮内で体が作られていく。そこは多分真っ暗い場所で今のこの部屋みたいに光の届かない場所。  えずく沙也加。ベットから飛び起き一目散にトイレへと向かう。  おかしい。何かがおかしい。  そう思いながらまた白い陶器製の便器を眺めている光景。結局胃からは何も出ずただえずくのみだった。  家族の寝静まるこんな夜中に自分は何をやっているのだろうと急に冷静に考え始めた。そもそもがおかしい。産む産まないは個人の自由、堕胎はする気にはなれない、かと言って産めと言われれば産むのかというとそうでもない、だったらやっぱり死ぬしかない。  確実に言えること。望んだ妊娠ではないということ。事故。  子供を産んで大学に通えるわけがない、就活はどうする? 子育ては? そもそも産む気はさらさらない、全てを引っくるめての自殺が一番の正解のように思えてきた。いや確かに正解なのかもしれない。  ここで涙を流さない自分は非情な人間なのかと自問し、いやそうじゃないと自答する賢い女性。涙を流して綺麗なお話に昇華できるわけもなく、ただ自分の心の中に溜まっていく黒い汚れたモノ。  人生が上手くいかない。いつからか斜め上を見上げながら腕組みして考えて始めている。トイレ内の天井隅が目線の先にある。  幼少の頃から上手くいってなかったように思う。生まれた時にはもうあれはいて、あれがいる限り自分の人生は向上しない、きっと自分が死んだあともあれは生き続ける。  漫画を描いているらしい。昔途中まで描いた漫画を読ませてもらったことがあった。絵はお世辞にも上手いとは言えない、話の内容も意味不明なものだった。  漫画家になりたいんだと、漫画で飯が食えるようになりたいんだと、最近は描いているのかすらもわからない、きっと描いていないように思える。  絵が好き。お話を考えるのが好き。地道な細かい作業が好き。あれはそうは見えない、ただ漫画家を目指して漫画家志望と言っているだけ、もう引き返せない年齢まで来ているのに現実逃避した歳の若い老人にしか見えない。  再び便器内にえずく沙也加。  唾液が糸を引いて便器内水溜りに落ちる。  もう駄目だと思った。耐えられそうにない。この先の人生に耐えられそうもない。  深い闇の中、彷徨う自分、微かに見える光の筋すらもない目の前、何も光が存在しない暗闇、目をつぶってもつぶらなくても変わらない光景。  ベタと呼ばれる黒く塗りつぶす行為。案外根気のいる作業。ただ塗ればいいわけでもない。白と黒のバランスを見て黒を入れていく。魅力的に引き立つ際立つ場合がある。ベタ塗りは必要な行為。  白など存在しない沙也加の人生。ベタで塗り固められた酷い人生。浮き上がらない絵となってそこに存在するのみ。正直な台詞が、囲み台詞が存在しない真っ黒な紙面。魅力的には到底映らない。 「死のう」  静かに呟いた言葉。  もう好転しない未来、次ページをめくりたがらない沙也加、めくったところで黒いベタ塗りの場面が続くだけ、もう漫画の体をなしていない面白くないモノ。  こんな漫画を誰が買う、誰も買わないきっと。  お腹の中の新しい命。産まないと決意した、一緒に死んでくれるか。  きっと頭のおかしい子供に決まっている。頭がおかしいんだよなあと思った。
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