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待人
海を訪れるのは確か高校生ぶりだろうか。
七海はぽんぽんと音を立てて進むフェリーに揺られながら思い返す。
高校の修学旅行以来、久々に訪れた沖縄の海は昔見たまま美しく、すっかり大人になった七海を変わらず温かく迎え入れた。
早速目的の離島へ行こうと決めていた七海は、羽田から飛んで昼下がりに那覇空港へ着到着し、すぐにフェリーへと乗り込んだ。
船に揺られること一時間近く、ようやく覗いた甲板の向こう側に小さな島が見えた。徐々に大きくなる島をしばらく眺めた後、生暖かい潮風を顔に受けながら、七海は下船の準備をしに座席へ戻る。
「ありがとうございました」
お礼を船員に告げ、ひとまず宿泊先の民宿へ向かった。予約サイトで画面越しに見ていた外観の通り古く年季の入った出立ちの古民家ではあるが、中に入ると意外と清潔感があり、大事に手入れされている様子が七海にもよく分かった。
「いらっしゃいませ」と小綺麗な白髪の腰を曲げた老婦人が七海を静かに迎えてくれる。連れられて通された和室は、実家の和室の匂いと少し似ていて安心出来た。
ごゆっくりと言い残し、部屋の引き戸を閉じた老婦人の足音が遠ざかる。
和室の真ん中に敷かれた座布団に座り、一人で泊まるには少し広い部屋だったかなと思った。
ぐるっと一通り部屋を眺め回したあと、七海は思い出したようにリュックサックから風呂敷に包まれた箱を取り出し確認する。
「よしよし」
七海は再びそっとそれをリュックサックに終い、一息ついて畳にゴロンと寝転がった。
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夕飯を早めに済ませた七海は海へ向かった。日没は待ってはくれないと思い、足が急く。そのせいか、船着場から歩いて来た時よりもずっと海が近く感じた。
「わぁ」
砂浜について開けた視界には、驚くほど大きな夕日が水平線へと、今まさに沈もうとしている瞬間だった。夕日は新鮮な卵の黄身のようなオレンジ色をしていた。砂浜や何もかもが赤く染まり、思わず感嘆の声を漏らしてしまう。東京ではこんな景色は見られないなと思い、七海は気分が高揚した。
少し波打ち際に近づいてジーパンのまま砂の上に腰を下ろす。辺りを見回すと観光客らしい人達がチラホラと、七海と同じように砂浜に腰を下ろしたり、立ったまま夕日を眺めたりしているようだった。
想像よりも燃えるような太陽の動きは早く、あっという間に半分以上、水平線の彼方へ隠れてしまった。もう沈んでしまうなと思いながら、ふと目線をそらし左横を見ると、少し離れた先に青年が七海と同じように座っているのに気が付いた。
横顔は凛々しく背筋がピンと伸びたその青年は、短髪の前髪の一部分だけに白髪が混じっているのが印象的だった。白いTシャツから伸びる腕が日焼けして浅黒く逞しい。
夕日がほとんど沈んでしまった後は、突然世界が変わり暗闇が地球を支配していくかのようだった。日没を見に来ていた観光客達も、一人、また一人といなくなる。しかし、その青年は石にでもなったかのようにじっと動かず、とうとう七海と青年の二人きりになってしまった。
七海が居づらさを感じ、腰をあげ掛けた時だった。
「待っているんですよ」
青年がそう七海に話しかけた。七海は浮かしかけた腰を一瞬ピタッと止め、驚きを隠せずにうっと声を上げてしまった。その様子に青年は苦笑いの混じった気まずそうな顔をした。
「突然話しかけてすみません、驚かせてししまって。怪しんでいたら申し訳ないなと思ったもんで」
青年は切長のシュラっとした目とは裏腹に、とても穏やかな低めの声をしていた。その声や話し方から穏和そうな性格が想像出来た。
「いえ…。えっと、待っているって?」
「あぁ、ほら、今ってお盆でしょう?会えるかなと思ってここで座って待ってるんですよ」
「誰を待っているんですか?」
「妻です。最期に会えず仕舞いで逝ってしまって…もしかしたら僕のことなんてもう忘れてしまってるかもしれないんですけどね。会いに来るのが遅くなってしまってもうだいぶ経つんですけど、今更、薄情もんですね」
青年は伏せ目がちに自分の指先へ視線を落とし話す。
「そういえば、貴方はここで何を?」
「私は…私も待っているんです」
「へぇ、誰をですか?」
「叔父です。癌で亡くなってまだお墓も無いので、お骨こつを海に撒こうかなと思って。まぁ待っているというよりは、帰って来てるなら、ここで夜までの間に一緒に悩もうかなと思って」
「…いつ亡くなられたのですか」
「今年の3月に。自分の家族にも見放されるようなどうしようもない自由人だったんで、私が渋々介護してました」
そう答えながら七海は徐おもむろにリュックから例の風呂敷に包まれた木箱を取り出し胸に抱えた。
「それは大変でしたね」
「凄く大変でした。介護って思ったよりも体力使うし。付きっきりで眠れないし」
「大切な人だったんでしょう?」
「うーん、どうかなあ。けど、今思えば私の父親代りみたいな人だったのかなって。私は父が居ないんですけど、小さい頃は何度か参観日にも来てくれたし、社会人になってからも飲みに連れて行ってくれたり。特別好きでもないけど、嫌いになれない、そんな感じです」
見ず知らずの人に何でこんなことを話しているんだろうと、七海は可笑しく思いながら聞いてみる。
「そう言えば叔父が泡盛をコーヒーで割って飲むと美味いんだってよく言ってました。こっちの人はそういう飲み方をするんですか?」
「いやぁ、どうかな。僕はしたことないですね」
「ですよね。ここの海が好きでよく来ていたみたいなので、色んな話を聞きました。だからこの海で自由に放浪してるのが良いのかなって思ったんです。アッチに行ってからも、こんな狭い箱に俺を押し込めるなって文句言われたくないし」
「だったら海はやめておいた方が良いですよ」
青年は笑いながら答えた。
「海は広いですからね、元の場所に帰って来るまでがきっと大変ですよ」
「そうなんですかね?散らばっちゃって?」
「そうそう、流されて帰りたくても帰れないって」
「確かに、それが本当なら叔父はきっと怒り心頭です。お前馬鹿かって罵られそう」
お互い顔を見合わせて、ふっと吹き出すように笑った。
辺りはもう真っ暗で、波の音と二人の声だけが響いているのが心地良かった。
「あーあ、何か少しすっきりしました。この手の話って誰かに言うにも言えなかったので。ありがとうございます」
「いえ、僕は何も」
「私、そろそろ戻りますね。海に撒くのも明日帰るまでの間に、もう少し悩みます」
「そうしてください。僕はもう少し…僕も明日までしか居られないので」
「そうですか、それじゃあお先に。あ、奥さんに会えると良いですね」
七海が砂を払いながらそう言うと、青年はどこか寂しそうにニコッと笑いながらありがとうと呟いた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
翌日も引き続き、朝からずっと快晴だった。正午前には少し早めの身支度を始める。ふと、あの青年は何時頃まであの砂浜にいたのだろうと七海は少し心配になった。そしてまだ、叔父の遺骨を海に撒いてしまうかどうか、決心はついていない。
七海の帰りのフェリーまであと二時間程しかない。早めに宿を出て、もう少しあの海辺で悩もうかと七海は考えていた。
「お世話になりました」
七海はリュックサックを背負い、玄関で会計を済ますため例の老婦人を待っていた。老婦人の高めの声が、木製カウンターの奥側からはぁーいと聞こえる。このカウンターも年季の入ったものだなとまじまじと眺めていたとき、カウンターの上に飾ってある一枚のセピア色の写真が目に入った。
「お待たせしました、お会計ねぇ」
老婦人が暖簾を潜くぐり、奥から小さな姿を見せる。昨日と変わらず、穏やかな表情をしていた。
「あの」と思わず七海は声を出した。
「はぁい?」
「この写真って」
老婦人は一瞬動きを止めた後、写真の方を見つめ目を細めた。
「これね、主人です。もうだいぶ昔のですけどねぇ。漁師だったんですけど、海に出たきりそのまま帰ってこなくてねぇ」
老婦人は懐かしむように写真立てを摩る。
「でもお盆は家に帰ってくるんじゃないかってね、ここにねぇ、こうやって写真を立てて待ってるんですよ」
結構男前でしょうと言って、老婦人はふふふと愛しそうに微笑んだ。
七海は会計を済ませ、表に出た。見送ってくれているだろう老婦人の気配を背後に感じながら数歩歩き、顔を上げて振り返る。
「この辺りに酒屋はありますか?」
「えぇ、少し行ったところに小さいですけどねぇ、ありますよ」
「ありがとうございます。あと、今夜、良かったら浜辺に行ってみてください。今日までなら会えると思います」
「え?」
きょとんとする老婦人を後に、七海はフェリー乗り場には向かわず、教えてもらった古びた酒屋で泡盛の小瓶を買った。自販機で缶コーヒーを買い、船着場とは離れた方へ海岸線に沿ってザクザクと歩いていく。
緑の生い茂った木陰を見つけて腰を下ろし、砂だらけになってしまったスニーカーと靴下を脱ぎ裸足になった。太陽の熱を帯びた砂は暑く、触ると火傷しそうだ。
リュックサックから風呂敷に包まれた叔父と、歯磨き用に持ってきたプラスチックのコップを取り出し、泡盛のコーヒー割を作って飲んでみる。
「うーん、叔父さん、氷忘れたな」
不味くはないねと笑いながら、横にいる叔父に話しかける。
『お前相変わらず馬鹿だな』とどこか人を見下しながら上機嫌に笑う叔父の声が聞こえるような気がした。いつぞや連れて行ってもらった居酒屋で、大きなロックアイスを人差し指でコロコロ転がしていた叔父の姿が目に浮かぶ。
あの青年は今日、老婦人に会えるだろうか。
ねぇ叔父さん、叔父さんを海に撒くのはやめたよ、あの人みたいに帰ってくるのに何十年もかかったんじゃお互い寂しいもんね。
なんだかんだ叔父とは死ぬまで二人三脚でやってきた。実の親子でもないし、葬式の時にも涙すら出なかったけれど、車椅子を押したのも、痩せ細った身体を拭いたのも、その骨を拾ったのも、七海だ。
七海にとって叔父は、共に必死に生き抜いた戦友のような存在だった。
「いつかさ、またここに連れてきてあげるよ、次はちゃんと氷も用意してさ」
快晴の空と海の境目をじっと眺めていると、どこか胸の奥がスゥッとする気分だった。叔父はこんな風に木陰を見つけて、大好きな本を一日中読んでいたのかなんて想像しながら、風呂敷を見つめニッと笑う。
温ぬるいコーヒー割りを飲みながら、七海は帰りのフェリーを叔父と待った。
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