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 彼女はきょうも、縁側に座っていた。  昔ながらの大きな平屋住宅。隅々まで手入れが行き届いた庭と、季節の野菜で賑わう畑に囲まれた空間は、まるで世界から切り取られたかのように静かな空気が流れている。 「……?」  そんな穏やかな場所に不法侵入してきた不審人物に気がついて、彼女がゆっくりと顔を上げた。昔はとびきり綺麗な人だったということは、数十年前の色褪せた写真を目にしたときから知っている。いや、見なくたってわかっていた。歳月とともにどれだけ皺や白髪が増えようと、彼女本来の美しさを損なうことは未だにできずにいるのだから。 「あなたは……」  いつも穏やかな笑みで迎えてくれる彼女だけど、きょうは違う。こんなに驚いた顔を見たのは、初めて会ったとき以来かもしれない。  彼女はおもむろに縁側から立ち上がり、一歩、二歩とたたらを踏む。俺のほうも同じ間隔で歩を進め、ほどよい距離感で向かい合った。  ある夏の日の、陽炎のような不思議な出来事。全ての事象をあるがままに受け入れることが得意な彼女が、この瞬間をそんな風に捉えてくれることを願う。  ただ、必要以上に不安にさせたり怯えさせたりはしたくない。相手を落ち着かせるために名前を呼ぼうとして、戸惑った。なんて呼べばいいんだろう。は、なんて呼んでいたんだろう。  「……妙子、さん」  これ以上ないほど目を見開いた彼女――妙子さんは、長い沈黙を経て、やがて静かに微笑んでくれた。正解を引き当てたという安堵も手伝って、俺の頬も自然に緩む。 「お元気ですか」 「はい、とても」  淡々とした短いやり取りだけど、それで十分。むしろ長々と話すとボロが出てしまう。この姿さえ妙子さんに見せることができたら、それでいい。 「とても幸せに暮らしていましたから、大丈夫ですよ」  大丈夫、と。こちらを安心させるように、ことさら明るく笑う妙子さんを見て、胸の奥が震え出す。  こういうところがすごいんだ、この人は。いつだって他人のことを親身になって考えていた。怪我をして迷い込んできた汚い野良猫のことも、その腕に抱えて必死に助けようとしてくれた。 「良い方と巡り会えました。良い子にも、良い孫にも恵まれて、これ以上の幸せはありません」  それは本当のことだろう。彼女はずっと幸せそうだった。優しい家族に囲まれながら、居心地のいい家で、余生を穏やかに暮らしている。  でも、ひとつだけ。彼女の表情が憂いを帯びる瞬間があった。昔の――戦前の写真を見るとき。若かった彼女が心から愛した、今は亡き恋人との思い出に浸るとき。 「私の幸せは、貴方と出会えたときから始まりました。ありがとう、直哉さん」  彼女の太陽のような笑顔を見届けることができたはずなのに、俺の心の中では急速に黒雲が広がっていく。  この言葉を、俺が受け取っていいんだろうか。俺がこれを聞いてしまって、本当によかったんだろうか。  妙子さんのためだと思ってやったことが、逆に彼女を傷つけてないだろうか。大事にしまい込んでいた宝物を、泥だらけの手で暴くような真似をしているんじゃないか。  そんな焦燥が、俺の顔にへばりついていたのかもしれない。妙子さんは目を細めて、いっそう深く微笑みかけてくれた。 「だから、なにも心配しないでくださいね。――ああ、心配といえば、きょうはまだあの子の姿を見ていないんです。いつも遊びに来てくれるのに」  どきん、と。心臓がひとつ大きく跳ねる。 「艶やかな真っ黒の毛並みの、とても可愛らしい猫。ある日、ふらりとここにやって来て、それから毎日、話し相手になってくれた。私はずっと一緒に暮らしたかったのだけど、怪我の手当のために家の中に入ってもらって以降は、決して縁側から上がって来ようとはしなくて……」 (それは、だって。あの子が――) 「きっと、たまに遊びに来る一番小さな孫が猫を怖がることを知って、遠慮してくれたんでしょう。本当に賢くて優しい子」  不思議な虹彩を宿した瞳が、まっすぐにを見つめる。  ああ、この人は本当に全てお見通しなんだ。  この家で一緒に住むことを、俺が拒んだ理由も。  目の前の男が、直哉さんの亡霊なんかじゃないことも。  人間に化けた黒猫が、下手なお芝居を演じていることも。  それなのに、恋人の姿を借りて現れた俺を責めるでもなく、理由を問い質すでもなく、陽だまりのような言葉をくれる。  妙子さんという人は、そういう人だ。 「……ねえ、直哉さん。あの子は、また会いに来てくれるかしら」  何かを確信したような、彼女の言葉。  長い年月を重ねた人間や、弱肉強食の世界の生き物……妙子さんだとか俺だとかの身近にあるもの。喪失。死別。そういった、哀しい気配を帯びた問い掛け。  妙子さんは、気づいている。これが、黒猫との今生の別れになると。 「会いに来ますよ、必ず」  ――だから俺は、最初で最後の嘘をついた。
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