赤いきつねと緑とアニキ(童話)

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 名字が赤井じゃというのに、子どもに『きつね』なんて名前を付けるぐらいじゃから、きっちゃんの両親は相当なワルじゃよ。  だからわしは、きっちゃんをミドリさんに会わせたんじゃ。ミドリさんはお兄さんのアニキさんと、山で二人暮らしをしているおばあさんじゃよ。二人ともずっと独り者で、子どもがおらなんだから、犬や猫や、ブタやらニワトリなんぞを飼って育てておったが、やっぱり本物の子どもが欲しいのう、なんて、アニキさんと二人でため息をついておったからの。  わし?わしは縁結びの神じゃよ。人と人との仲をくっつけたり、逆に縁切りといって、誰かと誰かを引き離したりするのが、わしの仕事じゃて。  きっちゃんは今年で9歳になる女の子じゃ。両親は子どもを捨ててどこかに夜逃げしてしまったから、きっちゃんは突然一人になってしもた。  いやいや、わしの仕業じゃないぞよ。あやつらは、勝手に出ていきおったんじゃ。なんでもわしのせいにするでないぞ。  きっちゃんはまず孤児院に引き取られた。孤児院というのは、身寄りのない子どもを育てる施設じゃの。そうして養子を探しておったミドリさんの家に引き取られるように、このわしが取り計らってやったというわけじゃ。どうじゃ?わしもなかなか粋なことをするじゃろう?  一つ心配じゃったのは、きっちゃんはこのときまでに言葉を失っておったということじゃ。無理もないことじゃよ。生まれてすぐに『きつね』にさせられたんじゃからの。言葉というのは、人が人であるために大変重要なものなんじゃ。  ミドリさんときっちゃんが初めて会ったとき、きっちゃんは自分に関係のあることが起こっているとは、つゆほども思っていないようなそぶりで、どこかソッポを向いておった。  ミドリさんも、どうして接したらいいかわからず、戸惑っておったんじゃが、この子こそ、わたしが育てるべき子どもだと、そう思ったのじゃよ。  もちろん、それはわしが関係しているということもあるんじゃけど、ミドリさんはミドリさんで、自分の名前に苦しんできたからなんじゃ。  ミドリなんていうのは、ありきたりで普通の名前なんじゃけれど、ミドリさんは気に入っておらんかった。子どもの頃から、あんまり緑色が好きではなかったんじゃのう。植物の緑は好きなんじゃけど、絵の具の緑は、なんだかこう、重苦しい感じがして、好きにはなれんかったんじゃよ。  でも、まわりの大人たちは、そんなことおかまいなしに、服でも物でも、なんでも緑色のものを与えたがった。  例えば赤い折り紙と緑の折り紙とがあったら、ミドリさんにまわってくるのは、もちろん緑の折り紙の方じゃ。じゃから、ミドリさんが折った鶴は、誰が見てもすぐにわかるんじゃて。  そんなわけで、子どもの頃から緑の服を着て、緑の帽子を被り、ノートも鉛筆も全部緑。緑に囲まれて育ったせいで、ミドリさんはすっかり緑が嫌いになっておったんじゃな。  その点、お兄さんのアニキさんは名付けの天才じゃよ。本名は何か他にあったように思ったんじゃけど、人生のあるときから、誰に対しても、自分のことはアニキと呼ばせるようにしたんじゃ。そうすることで、アニキさんはいつだってアニキであって、他の誰かではなくなった。  アニキさんが元々の名前を気に入っていたかどうかはわからん。けど、誰かから他の名前で呼ばれることがなくなって、アニキさんはいつでもアニキさんでいられるようになったのじゃよ。  きっちゃんというのも、アニキさんが付けた名前じゃ。ミドリさんが家に連れて帰ったはいいものの、どう呼んだらいいのかわからず困っていたんで、アニキさんが『きっちゃん』と命名してくれた。それできっちゃんは晴れてミドリさんの家の一員になることができたというわけじゃ。  まあ、もちろんきっちゃんはいつまでもきっちゃんではないんじゃろうけど、とりあえずミドリさんにとっては、きっちゃんがきっちゃんであることが必要なんじゃな。  ミドリさんの家で飼っとる動物たちの名前もアニキさんが付けた。二頭いる犬は洋平とチンタ。猫はネネとココ。亀はモッチとスッチとパッチ。アヒルのガーガー。  なんでそんな名前かって?それはアニキさんに聞いてみんとわからん。でも、ブタとニワトリは、全部ひっくるめてブタとニワトリなんじゃ。これらはときどき、食卓に上がるでの。  家の前には、畑がある。ミドリさんはここでタマネギやトマトなんかを作っておる。この畑には、太陽の胃袋という名前が付いておる。もちろんアニキさんの命名じゃよ。土地にも名前が付いとるんじゃ。家の裏を流れる小川は、釣り人の舌。ここではマスやアユがとれるんじゃよ。近所にある池は、カエルたちの楽園。  それから、忘れてならないのは、カエルの親分じゃ。これは本物のカエルじゃなくて、車が好きなアニキさんが乗っとる、変な車じゃよ。  この車は変わっていて、見た目はずんぐりむっくりで、カエルそっくりなヘンテコな顔をしていた。車というよりも、カエル星からやってきたカエル星人が乗ってきた宇宙船に見える。  中は横一列に3人が座れるようになっておった。普通の車は一列に二人ずつじゃから、やっぱりこれは宇宙人の乗り物かもしれないなんて、ミドリさんは思っとった。  アニキさんが、なんでこんなヘンテコな車にしたのか、ミドリさんには理解できんかったのじゃけど、これまでにもアニキさんは変わった車を乗り継いできたから、一種の道楽じゃと思っておったんじゃな。  きっちゃんが来てから、アニキさんはカエルの親分にきっちゃんを乗せて、街に必要なものをよく買い出しにいっておったよ。でも、ミドリさんはついていくことがなかった。昔はよく一人でも街にいっておったものじゃけど、最近は山を下りるのが億劫になっておったからのう。  おっと。いい香りがしてきたの。ミドリさんのごはんができたようじゃ。今夜のメニューは…、くんくん、このにおいはカレーじゃな。ミドリさんのカレーは絶品なんじゃよ。機会があったら、おぬしも一度食べるとよい。頬が落ちること請け合いじゃぞよ。  おいしそうなカレーがきっちゃんの前に運ばれる。きっちゃんはソッポを向いとるし、食べてもおいしいと言うことはないけれど、ちゃんと残さずに全部食べるぞよ。アニキさんは舌舐めずりして、鳥ももをたくさんよそってくれるようにミドリさんに頼んでおる。  今日は何カレーかの。それはわからんが、昨日とは違うカレーじゃよ。一日とて同じ一日がないように、ミドリさんのカレーは、一日とて同じカレーはないからの。風が吹く日は風が吹いた日のカレーになり、雨が降る日は雨が降った日のカレーになるのじゃ。  わしはさっき、においでカレーを当てたように言うたけど、実を言うとの、ミドリさんはカレーしか作らん。いつもいつでも、カレーを作って食べるんじゃ。ルーなんかは使わずに、スパイスから作る。  決まったレシピというのはなくて、その日の気分でチキンカレーになったり、ポークカレーになったり、野菜カレーになったり、なんと言ったらいいのかわからんカレーになる。  ちょっぴり辛めのカレーになることもあれば、ミルクがたっぷり入ったカレーのこともある。でもみんなおいしいカレーなんじゃ。ミドリさんはカレー作りの達人でな。  じゃけど、たまには、あっ、しまった、辛ーいカレーになってしもうた、なんてこともある。でも、きっちゃんはいつも全部食べる。おかわりはしたことないけど、汗をかきかき、お水を何杯も飲んで、ちゃんと全部食べるのじゃ。  ミドリさんがカレー作りが好きなのは、カレーは何を入れてもカレーになるからなんじゃと。いつも家の畑から、その日のカレーの材料を取ってくる。  ほうれん草が欲しいときは、ほうれん草のカレーになるし、インゲン豆が食べたいときには、インゲン豆のカレーになる。でも、何をどう入れても、カレーは結局カレーになる。  トマトを入れるのを忘れても、玉ねぎを飴色になるまで炒めるのを面倒くさがっても、最後にスパイスを何種類か、適当にパパパッと入れれば、やっぱりカレーの味になるのじゃよ。そこがミドリさんの気に入っているところじゃ。カレーにどんなに名前を付けようとしても、カレーは依然カレーとして、でんと聳え立っておるのじゃよ。  そんなにカレー作りが好きなら、カレー屋さんになったらいいのに、と、おぬしはそう思っとるじゃろ。わしもそう思う。ミドリさんも一度カレー屋さんをやってみたことがある。じゃけど、うまくいかんかった。  というのは、カレー屋さんをやると、いつも同じカレーを作らなきゃならんじゃろう。チキンカレーならチキンカレー、ポークカレーならポークカレーを作らなきゃならない。  でも、ミドリさんのカレーは、チキンカレーのつもりでも、ときどき野菜カレーっぽくなるし、野菜カレーのつもりでも、ときどきポークカレーっぽくなる。  ところがカレー屋さんに来るお客さんは、どういうわけか、チキンカレーはいつも同じチキンカレーじゃないと許せないというのじゃ。世の中に一つとして同じカレーはないというのにの。  要するに、ミドリさんは名前の付いたカレーは作れないのじゃ。じゃから山に引っ込んで、アニキさんと一緒に畑をやったり動物を飼ったりして暮らしておるのじゃよ。  さて、そういうわけでミドリさんたちと一緒に暮らすようになったきっちゃんなのじゃが、学校には行っとらん。街まで下りれば学校はあるのじゃけれど、行けばハルトじゃとかソウタじゃとか、そういった人の名前が付いた子どもがたくさんおるもんじゃから、そういうところにきっちゃんを行かすのもどうかと、そうミドリさんは考えたわけじゃ。  大人になったら自分で名前は変えられるのじゃが、まだまだそれはできん。じゃったら、家でミドリさんが勉強を教えたらどうだろうと、そう考えたわけじゃな。  家には犬も猫もいるし、ブタやニワトリもいる。周りにはトンボやバッタやカマキリがいるし、夜には星が見える。子どもが学習するには最適な環境じゃて。教科書の勉強はミドリさんが教えればいいだけじゃ。  そこで、昼間はみっちりと、ミドリさんが先生になってきっちゃんに勉強を教えることにしたのじゃよ。きっちゃんは一度も学校に行ったことがなかったから、あいうえおかきくけこから始めて、一から百までの数の数え方や、九九の計算の仕方、三角形は内角の和を180度で描かなければいけないことなど、一つ一つ教えていった。  わしは縁結びの神さまじゃけどな、きっちゃんにとっては、ミドリさんは神さまみたいなものなんじゃよ。言葉のない世界に言葉を授けてくれる、神さまなんじゃ。  きっちゃんがミドリさんに出会う前のことは、わしもよく知らんのじゃが、おそらくきっちゃんの短い人生の中で、初めての体験だったのではないじゃろうか。今、自分が住んでいるところには、なんていう名前が付いておって、その隣にはなんという名前の街があって、遠くに見えるあの山の名前とか、近くを流れる川の名前とか、毎朝庭の木に飛んでくる小鳥の名前とか、おそらくきっちゃんは、世の中のありとあらゆるものに名前が付いているということを、初めて知ったのではないじゃろうか。  夜になれば外に出て、星の授業じゃよ。ミドリさんの家は山の上にあるから、星がきれいに見えるんじゃ。  夏に夜空を見上げれば、空に白鳥が飛んでいるのが見える。織女と牽牛が一年に一度しか会えない身の上を悲しんで流した涙が川となり、天を流れる。  秋にはペガサスが夜空を駆け、冬になればオリオンが蠍から逃げていく。  空には物語があるんじゃよ。本当は星たちは星座の形をしていない。うんと離れた地球から見たら、たまたまそういう形に見えるというだけで。でもミドリさんは、そのことはきっちゃんには教えないでおいた。  ミドリさんはもちろん、見かけは空の星たちが動いているようでも、本当は地球の方が動いているのだということは、ちゃんと知っている。でも、普段生活していて、自分が今、立っている大地が猛スピードで動いているなんて感じたことはなかったし、太陽はいつも東から昇って西に沈む。  水星は神さまの使いで、知恵と言葉を司る。金星は女神さまの星で、火星は勇士。一番外にあるのは冥王星で、死と再生を司る。  それが太陽の周りを回る、ただの岩の塊でしかないだなんて、とても残酷なことに思えた。だってきっちゃんには、星たちの力が必要なように思えたから。  きっちゃんは生まれ変わる必要がある、とミドリさんは思っていた。今や冥王星は惑星ではなくなってしまったそうじゃが、ミドリさんにとってはそれはとんでもないことじゃった。いったい、冥王星がなくなったら、誰がきっちゃんを生まれ変わらせてくれるのだろう?でも、生まれ変わる必要があるのは、きっちゃんだけなんじゃろうか。  星の授業が終わると、二人はいつも流れ星を探した。空気のきれいな田舎の方じゃから、早い時間でも、一つや二つは見つかる。ミドリさんは願い事を用意して、空を見上げておった。星が流れ始めると、急いで心の中で願い事を唱えるのじゃ。  どうかお星さま、きっちゃんに言葉をお授けください。  それでもきっちゃんは、なかなか言葉を話せるようにはならなかったし、星を見上げる以外は、いつもソッポを向いたり、地面をじっと見つめていたりした。それでもミドリさんは幸せだったんじゃよ。きっちゃんのことを、本当の娘のように思っておったんじゃ。  じゃが、そんな幸せな日々は、突然崩れることになった。アニキさんが、物の名前を忘れるようになったんじゃ。それは急にやってきた。最初は些細なことじゃったんじゃ。犬の洋平の名前が思い出せんようになってしもた。  アニキさんはそれなりに歳をとっておったから、ミドリさんもそんなに心配はせんかった。多少の物忘れは、歳をとれば誰にでもあるものじゃて。でも、だんだんと、それは酷くなっていったんじゃ。  洋平の次は、チンタを忘れた。チンタの次は、猫のネネとココ。猫の次は、亀のモッチとパッチとスッチ。アヒルのガーガーも忘れた。  洋平とチンタはただの犬になり、ネネとココはただの猫になった。亀は、なんていうのか知らないけれど、ほら、あのときどき甲羅干しをしている水の中にいる生き物、になってしまった。  ガーガーは、ガーガーは悲しいのう。あるとき、ミドリさんがニワトリを絞めてくれるように頼んだら、アニキさんが持ってきたのは、ガーガーじゃったというわけじゃ。  世の中というのは、うまくいかんものじゃ。あれだけ名前を付ける達人じゃったアニキさんが、名前がわからんようになってしまうとはのう。アニキさんはとうとう、自分の名前まで忘れてしまった。アニキさんはアニキさんでなくなってしまった。  こうなると、途方に暮れるのはミドリさんの方じゃよ。今までアニキさんは、ミドリさんにとってずっとアニキさんじゃったんじゃよ。実の兄じゃし、物心ついたときから今までずっとアニキと呼んできた。アニキさんがアニキさんでなくなってしまったら、いったい何になるのじゃろう?  それについては、まあ、わしは神さまじゃから、答えを知っておるのじゃけど、本当は内緒なんじゃが、特別に教えてやってもいいぞよ。  神さまが世界を創ったときのことを思い出してみるがよい。この場合の神さまとは、わしのような縁結びの神さまとか、ミドリさんのカレー鍋の下におる、竈の神さまとか、トイレの神さまのことではなくて、この世界を創った大本の神さまのことじゃよ。  言ってみれば、神さまの中の神さまじゃ。その神さまが、『光あれ』と言ったからこの世ができた。そいでもって最初の人間を造り、その人間にありとあらゆるものの名前を付けさせたんじゃな。そうしてこの世は誕生したのじゃよ。  だから、名前がなくなってしまうと、何になるのかわかるじゃろ?何、わからんとな。勘の鈍いやっちゃの。神さまは最初に『光あれ』と言うたんじゃ。ありとあらゆるものが名前を持つ前にの。  光だけは、名前の前にあったから、『光あれ』と言うことができたんじゃよ。じゃから、名前を失うと、人は光になる。アニキさんは光になりかかっとるんじゃよ。  でも、ミドリさんはそんなことは知らんから、アニキさんに元のアニキさんに戻ってほしくて、アニキさんが好きだった鳥ももの入ったカレーを食べてもらおうとした。じゃが、ニワトリを絞めるのはいつもアニキさんの役目じゃった。ミドリさんには、どうにもその勇気がない。  どうしたもんかのう、と困っておったら、あはれ、子どもの成長とは不思議じゃのう。刻んだ玉ねぎとトマトの前でため息をついておったミドリさんにニワトリを持ってきてくれたのは、他ならぬきっちゃんであった。 「まあ、まあ、まあ。きっちゃん、きっちゃん、きっちゃん」  いつもきっちゃんに言葉を教えているはずのミドリさんじゃったが、このときばかりは驚きで『まあ』と『きっちゃん』しか出てこんかったのじゃ。  ミドリさんもアニキさんも、きっちゃんにそういうことを教えたことはなかったんじゃけど、いつもアニキさんがやるのを見ておったから、自然と覚えたんじゃろうな。  おかげでミドリさんは、鳥ももの入ったカレーをたんとこさえることができた。アニキさんの好みに合わせて、少し辛めのカレーを作ったつもりじゃったんじゃが、このときはミドリさんも少し普通じゃなくなってたかもしれん。カレーは、とても辛い、辛いカレーになってしまった。 「ああ、辛い。わたしったら、こんなに辛いカレーを作っちゃったのね」  ミドリさんは、お水を何杯もおかわりして、大汗をかいて、一皿のカレーをやっとこさ食べ終えた。きっちゃんも、ふうふう言って、汗びっしょりになりながら、頑張って食べ終えた。アニキさんは、ちいとも辛いようなそぶりは見せなかったけど、一皿食べ終えるのに、その何倍もの水を飲んだ。 「さあ、このカレー、どうしましょうかね」  ミドリさんがカレーをたくさん作ったものだから、辛い辛いカレーはまだたっぷり残っていた。 「そうだわ。明日は山を下りましょう」  おや、これは珍しいことじゃの。ミドリさんから出かけると言い出すなんて。  次の日、朝早く、ミドリさんはカレーを魔法瓶に入れて、ごはんをタッパに詰めて、カエルの親分に乗っけた。自分が運転席に座り、アニキさんを助手席に乗せて、真ん中にきっちゃんを座らせた。こうしてみると不思議なもので、横一列に並んでいるシートが、すごく自然なものに思われた。  ミドリさんは、アニキさんがこの車にしてくれてよかったと思った。普通の車じゃったら、きっちゃんだけ後ろとか、ミドリさんだけ前とかになってしまう。カエルの親分も、なかなかやるではないかと思った。 「さ、宇宙船カエル号の出発よ」  特に行く当てはなかったけれど、ミドリさんは海を目指した。特に理由はなかったけれど、今までずっと山にいたから、今日はなんだか海に行きたい気分だったのだ。  車はうねうねとした山道を下り、麓の街に出た。県道◯号とか、国道◯号とか、数字の名前がついた道を走り、徐々に山から遠ざかっていく。  ミドリさんは、この道もアニキさんが名付ければよかったのに、と思った。アニキさんだったら、味気ない数字の名前じゃなくて、きっともっといい名前を付けてくれる。そうしたら、この道たちも、もっと素敵な道になるのに。  でもわたしだったら、とミドリさんは思った。わたしだったら、道に名前はつけない。街を走る道も、山の中を走る道も、海へ続く道も、みんなすべて繋がっているのだから。それは一本の長い、大きな道だ。  ミドリさんは、アニキさんがもうじき光に還っていくことを悟った。アニキさんは最初の人類だ。光の中から生まれ、この世のありとしあらゆるものに名前をつけた、最初の人類だ。  そのアニキさんは今、名前を忘れていっている。すべての名前がなくなったら、人は光に戻るんだ。人によって名付けられたきっちゃんはどうじゃろ?名前を覚えていってくれているんじゃろうか。  本来、光でしかなかったものが、名前を持つことによって、アニキになり、きつねになる。数字の道になる。そこから逃げるには、光に戻るしかない。  周りの車のドライバーが、不思議なものを見るような目付きで、カエルの親分を見つめている。ミドリさんは得意気じゃ。遠い宇宙からやってきた、カエル星人の地球観光でござい。  地球時間で四時間ほどドライブしたころ、ようやく宇宙船は海に着いた。でも、ミドリさんたちにとってはあっという間に感じた。それもそのはず、光のスピードで飛ぶ宇宙船の中じゃ、時間はゆっくり流れるからの。  車を降りて、砂浜に足跡を記す。これはカエル星人にとっては、大きな一歩だ。ザザザア、ザザアと、母なる海がカエルを迎える。陸上に上がる前の記憶。海とは帰る場所なのか、それとも何かが生まれる場所なのか、どっちじゃろうな。  ミドリさんは、うーんと、伸びをして、潮風を思い切り胸に吸い込んだ。きっちゃんもミドリさんの真似をして、うーんと伸びをする。浜風は塩辛く、食欲を誘った。 「お昼にしよっか」  宇宙船の中に戻り、まずはお昼ご飯じゃよ。長旅でお腹ぺこぺこじゃでの。ミドリさんはきっちゃん用のご飯のタッパに、魔法瓶のカレーをよそう。今朝、出発前に温めてきたから、カレーはできたてのようにホカホカじゃ。 「辛い」  きっちゃんは、驚いたんじゃよ。ミドリさんが、カレーの味を薄くしたものだとばかり思っていたもんじゃから。昨日の夕飯に食べたカレーがそのまま入っているとは、思わなんだんじゃ。でも、もっと驚いたのは、ミドリさんの方じゃったかの。 「あら、あら。わたしったら、海に行くことで頭がいっぱいになっていたのね」  そうじゃろう、そうじゃろう。そうでなければ、こんなに辛いカレーを食べるのに、水を用意してこなかったなんて、ありえんからの。 「きっちゃん、お願いできる?あそこのお店に行って、お水をたっぷり買ってきてちょうだい。ジュースでもいいわよ」  きっちゃんは、コクっと頷いて、ミドリさんからお金をもらって、近くのお店までおつかいに行った。もちろん、一人でも平気じゃよ。アニキさんと一緒に、よく買い物に出かけておったから。それに、この子は並の九歳児ではないからの。大人でも辛いことに、ずっと耐えてきたんじゃから。 「ねえ、アニキ、アニキ。きっちゃんが、きっちゃんが」  ミドリさんは助手席のアニキさんの腕を取って、ゆさゆさとゆすったが、アニキさんは昼の太陽に光る海の方をぼーっと見ながら、にこやかに微笑むだけだった。  きっちゃんが買ってきたのは、水とジュースと、アニキさんが好きだった缶コーヒーをたっぷり。ミドリさんはカレーを一口食べて、鼻を押さえた。 「わたしってば、本当に辛いカレーを作っちゃったのね」  どうやらハンカチが必要なようじゃの。  片道四時間もかかるんじゃから、そんなに海に長居はできない。ひとしきり砂浜を散歩したら、戻ることにした。疲れてはおったけど、辛いカレーを食べたおかげで、体はまだポカポカしていた。じゃけど、ミドリさんは家に帰ってから夕食のカレーを作る気が起きんかったから、途中でハンバーガーを買っていくことにした。家に着く前に夕飯の時期になってしまったので、車を止めてカエルの親分の中で食べた。 「ああ、おいしい。どうして今まで食べなかったのかしらね」  こうして車の中で食べていると、食べたものがカエルの親分の栄養になるような気がする。カエルはカレーもハンバーガーも、いろいろなものを食べて、ますますずんぐりむっくりに成長していく。  ようやく家に着いたときには、もうすっかり暗くなっていた。ホウホウという、山フクロウの鳴き声が暗闇から聞こえてくる。ミドリさんは家の前で車を止めると、ガレージに入れる前に、運転席から降りて助手席に回り、アニキさんを降ろした。きっちゃんも一緒に降りる。そのときじゃった。 「あっ」  ミドリさんは、子どもが小さく叫ぶ声を聞いた。 「どうしたの、きっちゃん?」 「キツネ」  見ると、キツネの親子が、車のライトに照らされて、こちらを見ていた。山でも滅多に見ることのない、赤毛のキツネじゃ。 「そう、キツネ。あれがキツネよ、きっちゃん」  空には満天の星が輝いていた。女神は瞬き、勇士は赤かった。冥王星は目には見えない。ミドリさんは暗がりの畑に目を凝らしながら、明日は何を作ろうかしらね、と思うのじゃった。
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