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視線を老人の顔に戻して率直に気持ちを述べる。
「私には、楽しそうに見えます」
「どう見えるかということと、どうあるかということは別のことだ。どうあるべきか、は更に別のこと。耳を澄まして彼らの声を聞いてごらんなさい」
魚の声が聞こえると言うような人間に、普段の朱音は耳を貸さない。しかし、その日は違った。目の前を飛ぶように泳ぐ魚たちの声を聞きとろうと耳を澄ました。
「君はイワシかな、それともカツオかな?」
聞こえたのは魚の声ではなく老人の声だった。
朱音は水槽全体を見渡す。気になる魚は多かったが、名前を知っている魚は少ない。それで自分にイワシと名前を付けた。それは自分が知っている魚の中で一番小さく、弱く、平凡だからだ。
「イワシです」
「群れで泳いでいる?」
問い返されると、違うと思った。自分は群れに馴染めずにここに来たのだから。
「いいえ、あの、群れからはぐれたイワシです」
朱音は群れから離れて弱々しく泳ぐイワシを指した。
「あのイワシは、間もなく食われてしまうよ」
老人は手にした本を使ってマグロの群れを指した。〝自由からの逃走〟が朱音の視界を遮り、イワシの姿を隠した。
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