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朱音は射すくめられたように動けない。身体の血が沸騰したように混乱し、視界が閉ざされる。あるのは光の届かない深海のような闇だった。
「海は命のエキスだ」
その声で、朱音は視界を取り戻す。目の前には大きなサメの真っ黒な目玉があってギョッとした。
慌てて周囲を目で捜したが、〝自由からの逃走〟を手にした老人の姿は消えていた。海は命のエキスだ、と言った声は彼のものだったのだろうか、それともサメのものだったのだろうか?……朱音の視線は悠々と泳ぎ去るサメの尾鰭を追った。
それから水族館の中を歩いたが、老人の姿を見つけることは出来なかった。そうして水族館を出る時には、目の前には大海原が広がっていた。
家を出る時は少旅行のつもりだった。海でひと泳ぎして、翌日、水族館を見てから家に帰る計画だ。それでこれからも生き続ける勇気を得られるはずだった。ところが、広い空も海も朱音の心を癒すことはなかった。ただ、水族館で会った老人は、朱音も魚たちと違わないのだと教えてくれた。そして逃げることを認めてくれた。
朱音は、母や祖母に追われて泥の中を泳ぐような日常生活に戻ることを止め、小さな旅を、人生をかけた大冒険に変えようと決めた。
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