1922年

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1922年

「これが巷で噂のぐるぐるした蚊取り線香か。最長で何時間だって?」 「7時間」 「そりゃすげぇ! 俺の実家にあるのなんて40分ももたないってのに。いいか、俺らの血はお前にかかってるんだ、後ろはしっかり頼んだぞ」 「お前遊んでないでさっさと作業戻れよ」  生暖かい空気がベタリと肌に張り付く。縁側であぐらをかき、花火玉に紙を張り付けていた2人の男は滴る額の汗を手拭いで拭きさらった。 「ふー、にしても今年もまた暑いな。夏祭りの日には町が溶けちまうんじゃないか?」 「その前に俺らが溶けるかもな」 「これじゃあ進む作業も進まねぇよ……ああダメだ! もう耐えられん!」  なんとかして暑さをしのごうと火薬を玉に詰める手を止め、ひとりは着ていた作務衣をパタパタと扇いだ。  ドタドタドタ。  中庭を挟んだ向こう側からせわしない足音が聞こえてくる。なんだなんだと2人がその足音のしたほうへ振り向くと、かわいらしいスズランの模様が入ったワンピースを着た少女が敷居を踏んづけて死角へと消えていく。 「菖蒲田(しょうぶだ)のお嬢さん、今日は随分プリプリしてんな」 「また若旦那が約束ほったらかしてたんじゃないか?」 「いや、怒らせたのかもしれん。声がデカいとか言って」 「そのうち『私と花火のどっちが大事なの!?』って怒号が聞こえてきたりするかもな」 「はは、そりゃ肝が冷えて今の季節には丁度いい」  その戯け話は少女の耳にも入っていた。普段なら「失礼ね!!」と顔を真っ赤にして火薬をぶちまけるほど大暴れする彼女であったが、この日に限っては誰かに感情を向けるほどの余裕すらなかった。  戸を開け、さらに奥にある障子を開け、廊下を少し歩いてから、少女はこの本家花火柿屋の保有する花火屋敷で一等色あせている戸を前に深呼吸をした。一度、二度、三度……。頬に張り付いた髪を指先で弾いてから、少女は最後に力強く息を吐いた。  戸を一気に開け放つと、スライドされた戸は勢い余ってけたたましい音をたてて震えた。しかし少女もその部屋にいた少年も、その轟音に眉ひとつ動かさない。 「なにしてんのよ、アンタ。花火は? なんで作らないの?」  蒸し暑くて、入るのも嫌になる畳の部屋。その真ん中では寝間着の少年____妻比良(つまびら)一二郎(いちじろう)が猫のように丸まってうたた寝していた。   「……ああ、いつ子か……おはよ」 「おはよじゃないわよ。花火はどうしたのって聞いているの」 「どうしたのって……毎日作ってるわけないだろ。俺に休日はないのか?」 「今日だけじゃない。昨日も一昨日も、梅雨が明けてからずっと作ってないのは分かってる。お願いだから……もう、ごまかさないでよ……っ」  チリンチリン。  部屋に飾られていたガラスの風鈴が、戸から入った風に揺らされる。  一二郎が寝転がったまま振り返ると、廊下で冷やされた冷気が一機に頭の中に流れ込んだ。そして、随分昔から婚約を約束していた幼馴染が、ワンピースに咲く可憐な白い花に水をやっていた。ぽたぽた、ぽたぽたと、この夏にやる水にしては到底少ない量を。  「花火大会、見に行けないなら、なんでもっと早く言わないのよ……今作り終えられないからって、花火より私を優先しないでよ……ねえ、なんで? なんで一二郎は、夏も終えれぬまま死ななきゃいけないの……!?」 _____一二郎さん。あとひと月もしないうちに、病で亡くなってしまうの。  手桶に汲んだ水は滝のように流れ落ちて、アリが一匹溺れた。それは日が昇って間もない今朝のことであった。夜の空気が残っていた玄関先でいつ子が打ち水をしていた時、一二郎の母親が彼女の前に現れた。彼女はまずは夏の定型文を口にして、うつむいたひまわりが満開になるまで世間話を広げた。いつ子が手桶をひっくり返したのは、それより少し後の話である。 「私、いやだよ……一二郎のいない秋なんて、冬なんて、春なんて夏なんて!! 私は、ねえ一二郎、どうしたらいい? 私は、この夏を終えたら……どうしたら、いいのよ……っ……」  廊下とこの部屋の境界では暑さと涼しさが交じり合っていた。 一二郎の腕の中に閉じ込められたいつ子の体は熱く、それが移って一二郎の眼頭までもが熱くなる。熱中症のような、脱水症状のような、倒れそうになるほどクラクラとした感覚。そんな症状に襲われど、一二郎は回した腕を解きはしなかった。 「夏祭りも、秋も、冬も、その先も、一緒に行けなくて……ごめん」 「…………うん」 「花火、まだ作ってるって嘘ついてごめん」 「…………うん」 「ずっと、隠しててごめん……いつかは言わなきゃって思ってたけど、俺、怖くなって……言い出せなかった」 「…………怖いってなによ…………私、そんなに鬼じゃないのに……」 「うん、ごめん。ごめんな、いつ子…………そんなわけないのに、俺バカだ」 「本当よ……ほんと、バカよ……大馬鹿よ……」  伸びることもなければ元気になるわけでもない。けれど2人は暑さと涼しさの狭間で、ワンピースのスズランに水を与え続けた。隙間風に吹かれる風鈴に負けてしまうほど小さな声で、お互いがお互いを罵り、嘆き、そして愛した。 「…………最後にひとつだけ、打ち上げるよ。俺の花火」 「……それ、ほんと? ……見たい。上げてよ、必ず見るから」 「でもそれは……ちゃんと綺麗に開くか分からない。もしかしたら玉が空中で開かないかもしれないし、そもそも大きすぎて打ち上げることも出来ないかもしれない。……でも、俺の全部をそこに詰めた、から.......その……」 「なによ、こういう時くらい……ハッキリ言えないの?」 急かされた一二郎は1度だけ深呼吸をして、蒸されたい草の匂いを味わった。 「……最後に、こんなワガママ言って悪い……でも、もしその花火が”いい”って思えたら、なにか合図をして欲しいんだ」 「合図?」 「そう。送り火でも花火でも、なんでもいい。最期にいつ子の答えが聞きたい……その答えに乗って、天に昇りたい……」 「………天に………」 「お願い、できるか?」 チリン、チリン。 いつ子の声をさえぎって、風鈴が2度返事をする。その響きが溶けて無くなってから、いつ子は再び口を開いた。 「…………わかった。”いい”って思えたら、すぐに花火を用意する。だから、必ず見つけてね」  一二郎はその言葉を聞いて、心底安心したように笑った。 「見つけるよ、必ず」
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