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傘をもっていくべきか
どんよりと広がる雨雲。
今日は傘を持って出かけるべきか。
誰もが一度は、悩んだことがあるのではないだろうか。
とあるマンションの一室で暮らす夫婦も、その問題に直面していた。
「なぁ、なんか雨降りそうやない? 傘持って行った方がえぇんちゃう?」
いつもよりちょっとおめかしした千恵子は玄関のドアを開けるなりそう言った。
普段は身に着けない、とっておきのイヤリングが耳元で揺れる。
「えっ、雨降ってる?」
「わからへん。地面は濡れてへんのよねぇ」
玄関先で千恵子は薄暗い空を見上げたり、コンクリートの道路を見下ろしたりしている。
ここはマンションの二階だ。階段は足元が濡れないように屋根がついている。
普段は便利なはずの屋根のせいで、手を伸ばしても雨が降っているかどうかはわからない。
「濡れてないなら大丈夫じゃないかな?」
そう言いながらも、夫の博はスマホを取り出して天気予報を表示させている。
「降水確率は……40%だって」
「40%……! それは悩むなぁ~」
千恵子は傘立てに目を向ける。
「とりあえず持って行くか」
二人はそれぞれの傘を手にしてドアを閉めた。
しかし、千恵子の顔は納得がいかないという表情だ。
「雨降ってへんのに傘持って出るの、片手がふさがってうっとおしいんよ。せやけど、折りたたみもちょっとなぁ……」
家にある折りたたみ傘は防水性に乏しい日傘だけだ。
鞄に入れるには絶妙に重たいし、いざ使ったら使ったで畳むのが面倒だから、という理由で使われること無くほこりを被っている。
「それに使わへんかったら、店に置き忘れそう」
千恵子の傘はプレゼントでもらった大切な傘だ。
愛着があるだけに、もし無くしたら数日は落ち込むだろう。
「無くしたら嫌やし、持って行くの止めるわ」
そう言って、ドアを開けて傘を戻した。
それを見て博の方も同じように傘を戻す。
彼はうっかり者で忘れ物の多い男だ。
彼の傘は別に思い入れも無い千円そこらの安物だが、自分ひとりだけ傘を持っていると、置き忘れてしまうのではと不安なのだろう。
ドアを閉めて鍵をかけたが、まだ千恵子は納得がいかない様子で独り言を言っている。
「あー、でも。このじめじめした空気、なんか降りそうな感じなんよなぁ……」
それを見かねた博が、たずねた。
「どうしよう? 僕だけでも持って行った方がいい?」
「でも無くすの嫌やろ?」
「まぁねぇ……そうだ! 百円均一の傘を一本だけ持っていこう! それなら無くしても惜しくない!」
我ながらいい考えだと思った博は、ポケットから鍵を取り出しドアを開け、傘立てから透明の小さなビニール傘を引き抜く。
しかし、千恵子はそれに待ったをかけた。
「今日行くところって、ほとんど商店街付きの屋根やん? やっぱり要らへんのちゃうかな?」
「それもそうか」
博は素直な性格で、千恵子の言うことなら大抵のことは「そうかもしれない」と信じ込んでしまう傾向がある。
この時も、その人の良さがいかんなく発揮され、特に文句を言うこともなく傘を戻した。
「よし。じゃ、行こか!」
ドアを閉め、鍵をかける。
さぁ、今度こそ出発だ。
マンションの階段を降りて、エントランスを出て歩き出した瞬間。
「あれ、何か顔に冷たいのが当たる気が――」
地面に小さな染みが瞬く間に現れて、はっきりと雨音が聞こえた。
「傘取ってこようか」
「せやね……」
二人は苦笑しながら、さっき降りてきたばかりの階段を上ったのだった。
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