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milk ver・同棲後
普段と変わりない平日の、十時を少し過ぎた頃のことだった。自室から出て来た玉城が携帯電話を片手に物言いたげな目をしていて、出勤前に食器を洗っていた悠太朗は意図が読めないまま沈黙を続ける。
「今度、悠太朗さん連れてご飯でも食べに来いって親が言うんですけど…。そういうの大丈夫な人ですか?」
恐る恐る切り出された話に、悠太朗は思わず硬直した。確実にここ数ヶ月で最大の衝撃で、水の出続ける蛇口を取り敢えず締める。
「もしかして君のお父さんに殴られたりする?」
「何でだよ」
返事よりも先に浮かんだ疑念には、吹き出すと同時にツッコミを入れられてしまった。
しかし、悠太朗が想像出来るのはそれぐらいで、冗談でも何でもない。
「いい年してうちの息子に手出しやがって的な」
「金持ちの箱入り娘じゃないんだから、あるわけないでしょ。俺も大概いい年ですし」
そうは言っても、やはりネガティブな発想ばかりしてしまう悪い癖。
玉城の両親は息子に同性の恋人がいることを受け入れているらしいが、もしそれが上部の気持ちだったら。歓迎ではなく妥協だったら。その場合、悠太朗は自分は顔を見せない方がいいとすら思う。疑いたくはないけれど、信じることは疑うよりずっと難しいのだ。
「気が向かなければ無理することないですよ」
返答に迷う悠太朗を見かね、玉城が苦笑した。けれど、この機会を逃すのは酷くもったいない気がするのも事実だった。
「いや、行くよ」
「えっ?ほんとに大丈夫ですか?」
「うん。君と一緒に住んでる時点で一度も会ったことないのは失礼だし」
「別に婚前の挨拶に来いって意味じゃないと思いますけど…。まぁ、悠太朗さんっぽいからいいか」
いつも自分から一歩踏み出すことを躊躇ってしまうのだから、今この時に動かなければいつ動くのか。相手からの誘いは自分にとって好機だと思い込むことで、悠太朗はネガティブな思考を振り払う。
互いの予定をすり合わせ、いざ当日になるとやはり後悔するほどに緊張したけれど。
「悠太朗さん大丈夫ですか?」
目的地のドアを前に今更なことを問われ、悠太朗は強張った表情のまま頷いた。
「大丈夫。君のストーカーに一回殴られてるから、それぐらいの覚悟は……」
「だからなんで殴られる前提なんですか」
「僕コミュ力ないから玉城くん隣にいてね?お願いだから一人にしないで。絶対喋れなくなる」
「はいはい。入りますよー」
おざなりな相槌を打った玉城に腕を掴まれ、悠太朗は強引に玄関へと連れ込まれる。途端、知らないはずの匂いが妙に懐かしく感じ、不思議な気持ちになった。
「ただいまぁー」
間延びした玉城の声に続いてリビングに入ると、キッチンに立つ玉城の両親と視線が合った。
「お邪魔、します…」
ぎこちない挨拶に返された微笑みを見て、玉城の両親だと何かが腑に落ちた。目鼻立ちの類似点ではなく、表情や纏う雰囲気が双方共によく似ている。
「いらっしゃい、どうぞ座って。ちょうど夜ご飯出来たところだから」
「悠太朗くん、酒はいける口?」
「あ、お酒はちょっと……が、頑張れば」
「いや、頑張るなよ。そこは普通に断って大丈夫です。うちの父さん、酒を拒否ったぐらいで説教しないですから」
呆れた様子の玉城に口を挟まれ、笑い声が空間を包んだ。ダイニングテーブルに並んだ料理の数だけ見ても、歓迎されているのが分かった。どれも手が込んでいながら、堅苦しさのない空気が心地いい。玉城が初めて作ってくれた料理と同じ味付けを口にして、子供の頃から描き続けた家族と囲む食卓を思い出した。
「そう言えば、悠太朗さんと一緒に住むのは勝手だけど、迷惑かけてないでしょうね?ソファで寝落ちとかやめてよ?」
談笑を交えた食事の最中、母親が思い出したかのように言い始めた。
「さ、流石にこの年ではしてないって」
「エナジードリンク飲んで徹夜で仕事とか」
「風呂上がりに上半身裸族とか」
「大丈夫大丈夫…!」
母からも父からも飛ぶ苦言に玉城はぎこちなく頷く。当の本人は大丈夫だと言うけれど、どれもこれも現在進行形でやっていることな気がする。そんなことを悠太朗が思っていれば、横からちらちらと視線を向けられ、真相は黙っていてくれという心の声を察した。
「もぉー、本当はどうなんだか…。あんまり迷惑被るようなら悠太朗さんも言ってやってくださいね」
「いえいえ、僕が結構だらしないので人のこと言えないですよ。ポケットにレシート入れたまま洗濯物を出すなとか、玉城くんに何度か注意されてますし」
「玉城だって学生の時はしょっちゅう入れっぱなしで、人のこと言えないでしょうに。生徒手帳やらなんやら何回洗ったと思ってるの」
「ごめんってば。てか、悠太朗さんいるのに学生時代の話とか恥ずかしいからやめて」
「玉城くんそう言って昔の写真の一つも見せてくれないよね」
「あら、そうなの?高校生の時の写真なら携帯に……」
「えぇ…ちょっと、見せなくていいって」
母親は携帯電話を開くと暫く操作し、悠太朗に渡した。そこには卒業式と思われる場面で男子数名と写る玉城がいる。
「うわっ、玉城くんこの時からその顔なわけ?」
「その顔ってなに。当たり前だろ」
「学生時代からイケメンとか……って、ここのボタンないの、まさか…」
ボタンの二つ欠けたブレザーに気付き、悠太朗は嫌な予感がした。
「あー……なんだっけ、後輩の女の子に欲しいって言われてあげ気がする」
「よく見たらネクタイも無くない?」
「それも確か女子に……」
「はぁ?!」
「いや、だってボタンじゃなくてネクタイがいいって言うから」
玉城は慌てたように弁明するけれど、悠太朗が気にかかったのはそこではない。複数人の女子にボタンやネクタイをせがまれる、少女漫画のようなことが現実であったことに声を上げたのだ。異性にモテるのは知っていたが、恋人として決して面白くはない。
複雑な気持ちのまま携帯電話を返すと、机上に置かれた玉城のそれが着信を知らせた。
「あ…ごめん、ちょっと仕事の電話」
玉城はそれだけ言い残すと腰を上げ、廊下へと出て行ってしまった。仕事だから仕方ないとは言え、初対面の相手と自分とでは会話が繋げられないから、一人にしないでくれと言ったはずなのに。なんて内心焦る悠太朗とは対照的に、向かいに座る玉城の父親が密かに微笑んだ。
「あの子、かなり甘えたでしょう?」
脈略のない話始めを受け、悠太朗はきょとんと目を瞬かせた。しかし、やれやれとでも言いたげな物言いには覚えがある。呆れている風でありながら不快なわけではない、満更でもない時の言い方だ。
「末っ子だからって私たちも甘やかしたし、年の離れた兄弟に散々構ってもらえて。それが高校の頃ぐらいかな。反抗期って態度ではないけど、急にどこか冷めちゃって。今の仕事を始めてからは余計に」
玉城の両親が昔から感じていたそれは、年齢特有の羞恥心などではなくて、彼が一人で抱えた何かなのだろう。
悠太朗が玉城と友人になったあの日、部屋に一人きりで世界から隔離されたようだと孤独を語ったその言葉も、冷めているという表現がよく似合った。イラストレーターなんて経験したこともない職業、悠太朗は未だに詳しく分からない。企業に勤めるのとはまた違うし、苦労の種類も変わってくるかもしれない。
「正直……今日、僕は殴られるぐらいの覚悟で来ました。なので、どう受け止めていいのか…」
「じゃあ、ありがとうとだけ言わせてほしい」
「え?」
「自分には全く経験のない世界だから、長男や長女の時みたいに僕がしてあげられることなんて何もなかった。だから、ありがとう。玉城の隣にいてくれて」
微笑まれた先で悠太朗は信じられないといった、他人事のような心地でその言葉を受け止めた。
「僕も甘えてばかりですよ。好き以前に憧れというか…月並みですけど、凄いなぁって。囚われない彼の身軽が羨ましかったんです。人の目を見て話せる真っ直ぐさも、迷わない強さも何もかも」
玉城の両親に何を吐露しているのだと思いながら、口にしてみれば恥ずかしげもなくすっきりとした。通話を終えた玉城が戻って来て、何事もなかったように時間を過ごし、帰路に着く頃にはすっかり外が暗くなっていた。
「お邪魔しました」
「またいつでも来てね。二人の好きな物たくさん作るから」
「ありがとうございます。お二人も横浜に来たら、是非うちの店にいらしてください」
その言葉は本音として、実にすんなりと悠太朗の口から出た。数時間前まで自分は何に怯えていたのか不思議なほど。二人で帰路を歩きながら、悠太朗は仄かな余韻を感じていた。
「玉城くんのご両親、素敵だね」
「そう?俺が通話から戻った時、悠太朗さん泣きそうな顔してたから、何か言われたか相当気まずかったかと心配してたけど」
「そうだね、泣きそうだった。今も泣きそう」
隣を歩く掌に指先を滑らせ、絡んだそれに玉城がやや瞠目してこちらを見上げた。離してやるつもりはない意思を込めて悠太朗が微笑めば、少しだけ悔しそうに黙り込む。
満たされたこの感情を言葉にしたいのに、どうしたって陳腐になってしまう口惜しさ。
しかし、いつか玉城にも両親としたあの会話を伝えたい。幸せで泣きそうというのは、きっとこんな夜に使うのだ。
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