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milk ver・同棲後
同棲を始めて間も無く。
悠太朗と玉城は初めて喧嘩をした。原因は本当に些細なことで、平常時であれば口論にすらならなかったと思う。恋人同士が同棲を始め、お互い譲れない点に仲違いをするなんてのはよく聞くが、何だかんだ上手くやっていた為、二人共がそれをどこか他人事のように思っていた節がある。その日の玉城は、暫く続いた徹夜で文字通りの疲労困憊状態だった。
「玉城くん」
そんな声に目を開けると、こちらを見下ろす悠太朗の不安そうな顔があった。
「おはよう。大丈夫?」
「んー……はぃ」
ソファに仰向けで寝転がる玉城は、しょぼつく目を擦り何とか返事をする。最近はベッドで寝ると決めた時間に起きられない事態を危惧して、リビングのソファで寝ることが多かった。持ち上げた頭は鉛のように重く、丸まって寝た所為で体の節々が軋む。ソファから下り、ふらりと向かったキッチンでは悠太朗がコーヒーを淹れていた。
「今日はちゃんと淹れる日ですか?」
「うん。君ほどじゃないけど僕も最近忙しかったから、朝にゆっくり淹れてる暇がなくて」
「あぁーこの季節のサービス業は忙しそうですね。観光シーズンってやつ」
「お店としてはありがたい話だけど……って、君またそれ?」
玉城が冷蔵庫から取り出したそれに、悠太朗は大袈裟な声を上げる。仕事が詰まっている期間の玉城は、手っ取り早くカフェインの摂取出来るエナジードリンクに頼りきっていた。元より自分でコーヒーを淹れないし、恋人が甲斐甲斐しく好みを把握して淹れてくれるので、万人受けする市販品では満足出来ないまでにコーヒーに関して舌が肥えてしまっている。故にエナジードリンクが一番効率がいいのだ。
「やめときなって、そんなボロボロの時に飲むと胃に悪いから。最近とか特にまともな食事取ってないだろ」
悠太朗は子供を窘めるような声で、随分と痛い所を突いた。普段なら優しさの延長線だと聞き流せる物言いだが、仕事で擦り減った今の玉城の神経には逆効果だった。
「子供じゃないんだから放っておいてください」
「放っておけないから言ってるんだよ。僕からしたら弟より年下だし。忙しいのは分かるけど少しは食べた方が……」
「うるさいなぁ。悠太朗さんだって褒められた食生活でもないでしょ」
溜息と共に玉城が吐いた文句は、部屋の空気をピリつかせた。
「何怒ってんの?」
「別に怒ってませんけど」
棘のある声色にカチンと来たのはお互い様だ。悠太朗も玉城も、相手の言い分に一理あるのは重々承知していたのだけれど、そこを気にかけて発言するだけの余裕がない。
「子供扱いされたくないなら、もう少し規則正しい生活したらどう?」
「フリーランスの仕事したことないのに口出ししないでもらえます?」
一歩も譲らない姿勢に、尖る言葉と重くなるばかりの空気。双方は相手に引く気がないのを理解し、これ以上の会話は無駄だと諦観に近い境地に至った。
「もう勝手にしたら」
「言われなくてもそうします」
二つ分の溜息が流れ、玉城は自室へと足を向けた。同じ屋根の下で住むのであれば、お互い譲り合わなければならないことも多い。分かってはいるのだが、そうすんなり事が済めば世界はもう少し上手く回っているのだ。玉城は仕事の資料やマグカップで散らかったテーブルに辟易とし、悠太朗が出勤するよりも前、電子タブレットを詰め込んだ鞄を持って何も言わず自宅を出た。早朝の朝日はやたら眩しく、当てつけで頼んだチェーンのカフェラテに玉城を後悔が襲う。徹夜明けの一発目にカフェラテは胃の奥が軋み、あまりいい物ではなかった。
(本当に正論しか言ってないんだよなー)
勿体ない精神でちびちびとカフェラテを飲みながら、玉城は先程までの会話を思い浮かべる。悠太朗の言うことは大抵いつも筋が通っていた。そしてどんな時も寛容で優しくて、一応は当番制になっている洗濯を玉城がし忘れても、乾いていない仕事着を前に嫌な顔一つしなかった。それどころか、似たワイシャツを着たらバレないだろうなんて笑ってくれる程。しかし、それと同時に子供扱いする癖も抜けない。
(そりゃあ、実の弟より年下だったらそれも仕方ないかもしれないけど)
あの時の優しさも、この優しさも、弟に接するような感覚だったのかと思うと少し虚しくなる。通勤通学で忙しない駅までの道を眺め、玉城はこれからどうしようかとカフェラテを啜った。暫く自宅の方は気まずいし、数日ネットカフェやビジネスホテルに籠るのも一つの逃げ道かもしれない。
けれど、今一人になると、この沈み切った感情が浮上しない気がした。最近は仕事続きで悠太朗ともまともに話していないので、玉城は人との会話に飢えていた。となれば、近場で頼れる所など一箇所しかない。
「二、三日だけ、ね?泊めて?」
突然押しかけた実家で、玉城は母親に両手を合わせた。久々に顔を出したかと思えば、唐突なお願いをする息子に、玉城の母親は不可解な表情を隠さなかった。
「それはいいけど…。あなた仕事は?」
「大体は終わってるし、タブレットなら持って来たから」
ふーんと鼻を鳴らし、それでもまだ少し詮索するような目線。突然にも程があるので、特に理由はないで突き通すのが無理なのは承知していた。しかし結局は何も聞かず了承してくれた。
「それはそうと、ご飯は?食べた?」
「あー……いや、今何か食べると眠たくなるからやめとく。徹夜で詰めた所もう少し進めておきたいし」
自室のある二階へ上がりながら母親に返事をすると、体に悪いなんて正論を言う悠太朗の声が頭上で聞こえる気がした。荒んでいる時の正論はどうしてこうも耳に痛く、受け入れ難いのだろう。机とベッド以外これと言って物のない自室に身を置き、玉城は気を紛らわすようにタブレットへと向かった。
「あなたの布団ないからさぁ、取り敢えずこれ使ってくれる?最近干したばっかりだから」
「んー、ありがと」
ベッドへ布団を敷きにきてくれ母親を視界に入れ、玉城は何となく携帯電話を手に取った。すると軽くタップした画面に悠太朗の名前が浮かび、三文字の短い謝罪が続いていた。少しは落ち着いたと思われた怒りが、先に謝られてしまったことで再熱し、玉城は眉間に皺を寄せる。これは完全に子供じみた意地だ。
〝俺が何で怒ってるか分かるんですか?〟
そんな返事をすれば相手がメッセージを読んだマークが付き、返事が来ないまま五分、十分と時間が過ぎる。
(あの人、俺が怒ってるか理由も分からないのに謝ってきたのかよ!)
返事のない液晶画面と二十分ほど対峙し、怒りに任せて携帯電話をベッドに投げつけた。
どうせ悠太朗は、玉城の怒りの根本が子供扱いしたことと知りつつも、そこからあれこれ深読みして返信に困っているのだ。
いや、もしかして玉城がそう思っているだけで、本当は返信をするのも嫌になる程怒っているのか。悶々と悩み身を投げた布団は、微かに実家の匂いがした。自分の家の匂いなんて住んでいる時は気付かなかったのに、それが今は酷く落ち着く。最近の徹夜と実家の安心感とが合わさり、玉城はうとうとし始めた目を瞑った。
次に目を覚ましたのは、階下から自身の名前を呼ぶ声に気が付いた時だった。
「なんだお前、寝てたのか?」
階段を降り欠伸を噛み潰す玉城に、いつの間にか帰宅していた父親がキッチンから顔を出す。
「あら、ごめん起こしちゃった?夜ご飯出来たから食べるかなーって思って」
「んー……や、大丈夫。食べる」
並んでキッチンに立つ背中を見て、相変わらず仲のいい夫婦だとぼんやり思った。何時間寝ていたのか定かではないが、部屋に漂う料理の匂いに玉城は空腹を痛感する。
満腹になると眠くなるとか、作る時間が惜しいなんて言って適当に済ませてばかりいたここ数日の中で、間違いなく一番まともな食事だ。
「それで、悠太朗さんと喧嘩でもした?」
三人で食卓を囲み、突然の話題に玉城は体を硬直させた。父親も既に玉城の恋人の存在は知っているが、身内と恋愛の話は正直気不味い。母親は勘が鋭いというのも古今東西で決まっているのだろうか。
「違うけど?」
「喧嘩したのね」
やれやれ、と呆れる母親に玉城はそれ以上は何も言えなかった。口を開いた所でどうせボロが出るだけ。言い争った理由はあまりにしょうもないし、怒っている自分が子供な気がして詳細なんて話せるはずもない。結局その日は悠太朗からの返事はなく、実家で一晩厄介になった。
「喧嘩の最中の既読無視ってどう捉えます?」
翌日、編集社の担当に前触れのない質問を投げると、出来上がったばかりのサンプルを持って来た男性が不思議そうな顔をした。
「どう、とは?」
「相手もまだ怒ってるとか、返事に迷ってるとか」
「単純に考えるならまだ怒ってるんじゃないですか?」
「ですよねー」
「喧嘩してるんですか?」
「まぁ…ちょっと、軽い口喧嘩ですけど」
理由を話せば笑われる気がするので、玉城は濁す形で逃げた。するとやや声量を下げた男性が、テーブルを挟んだ玉城の方へ身を乗り出す。
「タマさん彼女いたんですか?」
「え?」
「それ、あんまり大っぴらに言わない方がいいですよ。うちの社内でペットロスならぬ、タマさんロスが起こるので」
「な、何の話ですか?ロスって」
皆目見当もつかず、玉城は疑問符を浮かべるばかり。その反応に男性は驚きを滲ませた後、盛大に嫌な顔をした。
「はぁー?気付いてない?これだから無自覚イケメンは困るなぁ。この顔、この業績、この社交性でうちの女性社員は総取りですよ。担当でさえ万全を期して既婚の僕が選ばれたぐらいなんですから」
「えぇ?いやいや、まさかそんな」
過大評価とも言えるそれに玉城はケラケラと笑うが、男性の表情は変わらず、次第に笑いが尻すぼんでしまった。
「マジですか?」
「大マジです。本当に何も気付いてなかったんですね」
「だって皆さんそんな感じ見せないじゃないですか」
「それは仕事相手として接していますから。でも彼女たちも人間です。裏で欲の一つや二つあって当然でしょう。ただここ最近、関係者の食事をタマさんが二回連続で断って社内がザワつきました」
「あぁ…でも、別にあれは大した理由では……」
「それにこの前の旅行」
「は?待ってください!俺、その話は一部の人にしかしてないですよね?!しかも世間話ぐらいの軽い感じで!」
「申し訳ないことにうちのフロアにはもう出回ってます。タマさんは左手に指輪がないか監視されてると思った方がいいでしょうね」
不穏な忠告を受け、玉城は思わず左手を握った。まさか編集社で自分がそんな扱いをされているなんて夢にも思わなかった。気分が悪いわけではないが、ただただ恥ずかしい。関係者の食事を二回続けて断ったのだって、悠太朗の帰宅が遅い日が重なり、猫のご飯をあげる役目を担っていただけのこと。
(そう言えば…)
帰路の途中、担当の男性とした会話に今日の日付けを重ね、悠太朗の帰りが遅くなる日だったことを思い出した。
現在の時刻は夜の八時過ぎ。いつもなら二時間前に彼らはご飯を出されているはず。真っ暗な部屋で空腹に鳴く三匹を想像すれば、何だか急に怒りの熱が冷めてしまった。玉城は独りよがりな感情に頭を掻き、すぐそこに見えている実家へ駆ける。そして玄関に靴を脱ぎ捨て、キッチンに立つ母親へ頭だけ覗かせた。
「ごめん、夜ご飯食べれなくなった!」
一方的な謝罪に振り返った母親は、少しの安堵を滲ませ微笑んだ。
「そう、帰るの?」
「うん。ほんとごめん。次来る時はちゃんと連絡するから」
勝手に押しかけては勝手に出て行く、その身勝手さに申し訳ないと思う玉城に反し、母親は怒った風を微塵も見せなかった。玉城がそのまま出て行こうとすると、背後から慌てたように引き止める声が飛んで来た。
「なに?ちょっと急いでて……」
「いいから待ちなさい。ほら、これ持って行って」
冷蔵庫から出されたのは、タッパーに詰められた料理。母親は広げた袋一杯にそれらを入れ、玉城に持たせた。
「ありがたいけど……多くない?」
「二人で食べたらあっという間でしょ」
そう言って笑う母親に玉城は豆鉄砲を喰らい、間も無くして確かにと笑みを洩らした。片手に少し重たい袋を下げ、急足で向かった自宅は真っ暗だった。
「ただいまー」
悠太朗がいないと分かっていても、三匹の猫に向かって言ってしまう癖。リビングの電気を点けると、彼らはすぐに姿を現した。
「ごめんごめん、お腹空いたよな」
玉城は鞄やキーケースを適当に放り、空の皿にキャットフードを出す。
実の話をすると、悠太朗の帰りが遅くなる日は時々あるので、一度は自動餌やり機の話が持ち上がった。しかし、過去に定額制で借りられるシステムを利用した際、機械が稼働する音に驚いてしまい、みんながみんな近寄らないと言う問題が発生したとか。
それから帰宅が遅くなる際は出勤前に二食分纏めて出す手段を取っていたらしいが、食欲のある子が別の子の分も食べてしまう事例もあるので、目の届かない所でそれはあまり適正とは言えない。
(だから在宅仕事の俺と一緒に住んだら、何かあった時に安心って言ったのになー)
お互いの予定が合わないのも同棲する発端だけれど、店長職で忙しい悠太朗の融通が効くように、玉城が猫の世話を買って出たのだって嘘ではない。
無責任な喧嘩を悔やみ、食事中の三匹を眺めながらまた一つ溜息を吐けば、背後でドアの開く音がした。それをした人間は無論一人しかおらず、時計を見ると聞いていたのよりずっと早い時間。玄関から向かって来た足音はリビングの手前で止まり、振り返った先には瞠目する悠太朗が立っていた。
「お、お帰り」
「悠太朗さんも。お帰り」
双方が出迎える側の挨拶をし、少しだけ可笑しな光景に二人は同時に微笑した。
「今日は遅い予定だったんじゃないですか?」
「うん、けど早めに終わったから。君が帰って来てるとは思わなかったけど」
そこを言われると玉城は心が痛い。子供扱いされることに不満がありながら、結局は子供じみた反抗をしてしまった。
「悠太朗さんの帰りが遅いことを思い出したんです。それで、俺らの喧嘩に巻き込まれるのは可哀想だなって…。この子達に罪はありませんから」
膝を抱えたままぽつりと呟いた玉城の隣に、悠太朗が徐に腰を屈めた。猫の丸い頭を撫でるその手は相変わらず優しい。
「僕さぁ、玉城くんが、僕の大切なものを同じように大切に扱ってくれる所凄い好きなんだよね」
突然何を言い出すかと思えば、気恥ずかしい褒め言葉だった。玉城が何も言えず悠太朗を見つめると、少年を残した目元が皺を寄せる。
「だから、僕にとって玉城くんは大切な人だから、玉城くんも大切にしてくれると嬉しいな」
まるで懇願でもする声色で、悠太朗は切なげに言った。その優しさを前にすると、玉城は自分の欠点ばかりが浮き彫りになり、居た堪れない気持ちになる。そして同時に好きの気持ちを募らせる。
「すみませんでした。疲れてて余裕がなかったなんて言い訳にしかなりませんけど」
「僕も口うるさく言ってごめん」
たった数日だが、離れていたのがよかったのかもしれない。素直な謝罪は存外すんなりと口から出た。
「悠太朗さん夜ご飯決まってます?」
「いや?」
ふるふると首を横に振った悠太朗に、玉城は母親から渡されたそれを掲げた。自分たちでは作らない手の込んだ料理ばかりに、二人の腹の虫が鳴る。皿に出すのを億劫で、容器のまま電子レンジで温めて食卓に着いた。
「玉城くんのお母さん料理上手だねー」
「どうなんでしょう…。でも確かに、昔から手が込んでるイメージありますね」
「僕このイカの煮たやつめっちゃ好き」
「俺も。料理名全然知らんけど取り敢えず旨い」
「分かる」
ムードもなければ屈託もない会話が安心して、食事を終えて風呂から上がった途端、玉城は急に眠気が来た。昨日、一昨日と実家で随分のんびりしたが、やはり気がかりが拭えたのが大きい。
「玉城くんお先ー。電気頼んだ」
「はいはーい」
一足先に自室へ向かいながら、リビングの消灯を託す悠太朗に返事をすると、キャットタワーから飛び降りた黒い影が後を追った。
「あれ、くろまめがついて来るなんて珍しい」
物珍しげに言いながら、満更でもない緩みきった顔。その様子を何となく眺めていた視線に気付いたのか、悠太朗と視線が合った。
「一緒に寝る?」
甘さを含んだ問いかけは愛猫にかけたものではなく、間違いなく玉城に向けたものだ。
「なんて、冗談……」
「寝る」
至極真剣な表情で頷いた玉城に、悠太朗は分かりやすく唖然とした。そのままリビングの電気を落とし、悠太朗の手を取った玉城は部屋へ足を進める。
悠太朗が自分を子供扱いするのは、大凡こういう所からなのだろうと玉城は薄々分かっていた。しかし、好きなのだから仕方がない。末っ子に生まれた時から寂しがりで、弟扱いは嫌だと言いながら、好きな相手には構われたいし甘やかされたい。
「君は子供扱いって言うけどさ、子供に見てるなら付き合わないから」
一つのベッドに成人男性が二人と猫一匹。必然的に近い距離で悠太朗が囁く。
「どーだか。恋人に高校の制服着せて抱くぐらいだからなぁ」
「それは…だって、玉城くんもまるっきり嫌ではなかっただろ?」
「さぁて、寝よ寝よ」
「ねぇ!何で僕ばっかり変態みたいな扱いするのさ」
「悠太朗さん、くろまめがうるさいって」
苦情の発信源は猫になすりつけ、玉城は目を閉じた。同じベッドで眠るなんて今まで行為をした後ぐらいだったが、これは案外悪くない。夜に溶ける他者の鼓動を、玉城は沈みゆく意識の中で感じていた。
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