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三毛玉城・過去編
大学進学と同時に一人暮らしを始めた当初、玉城はワンルームの窓からの狭い空をよく眺めていた。趣味で描いていたイラストが注目され始め、収入が確保出来るようになり、大学と自宅とを行き来する生活が続いていた。
(今日はこの辺でいいか)
電子タブレットのペンを置き、伸びをした玉城は今日も狭い空を眺める。
好きで始めたことが認められるのは嬉しい。大学では友達が出来て、興味のあることを勉強して、忙しなく通過する日々は間違いなく充実していた。それなのに拭えないこの物寂しさはなんだろうか。
こんな時いつも決まって、高校の廊下に佇む自分が脳裏を過った。
「タマって絵とか描くんだっけ?」
通りかかった教室から聞こえたクラスメイトの声に、玉城はドアへ伸ばした手を止めた。放課後で殆どの生徒が部活へ行ってしまった後の、帰宅部数名が残るだけの空間だった。
「オタクじゃね?あの顔で」
「あの顔ってお前」
「いや、言いたいこと分からん?顔も性格も完璧に陽キャだろ」
「やめろよー。分かるけど」
「絵で食ってくって夢見ちゃう系かぁー」
ゲラゲラと笑うクラスメイトの声に、玉城は暫くその場を動けなかった。彼らは玉城がよく一緒に行動する生徒ではない。
しかし、冗談を言い合っては笑い、学校行事の係がどうだとか、テストの結果が駄目だったとか。他愛のない話をする仲の良いクラスメイトだと思っていた。
(悪口、ってほどではないけど…)
そう心の中で思いながら、それからは絵を描くことをなんとなく隠すようになってしまった。キャラじゃない。そんな言われたわけでもない言葉が、高校を卒業した今でも浮かび、流石に被害妄想だと首を振るう。
(こんな時に彼女がいたら、少しは気が紛れたのにな)
彼女とお揃いで買ったアクセサリーを机上に見つけ、玉城は足元のゴミ箱へ放った。
生憎高校生の時から付き合っていた彼女とは、大学に入学して一年ほどで別れてしまった。理由はありきたりな予定の合わなさ。高校の時は学校が同じで会うことが出来たけれど、お互い違う大学に進学し、それぞれの予定があって、すれ違ってしまった。
この際誰でもいいから会いたいなんて人肌に飢えてしまうのは、生来の構われたがりな性格だろう。玉城は椅子の背凭れに身を預けたまま、ささくれた親指に爪を立てる。僅かに走った痛みから血が滲み、徐に腰を上げると着替えもせず靴を履いた。
行く当てもなく家を出た午後十一時過ぎ。都会の繁華街はまだまだ人通りが多く、煌々と灯った酒場の看板に幾分かほっとする。すぐそこのコンビニで買ったサワーのプルタブを捻り、パチンコ屋か何かの看板の側に腰を下ろした。
「君、誰か待ってる?」
暫くしてそんな言葉に顔を上げると、そこには三十代半ばかそこらのスーツを着た男性が立っていた。
「いえ………あ、成人ならしてますよ」
時間帯と手に持った酒の缶に補導かと、玉城は咄嗟に年齢を明かした。
「ならこれでどう?」
しかし、玉城の予想とは裏腹に、立てられた四本指を見せられる。意味が分からず無言でいると、男性は微かに口角を上げた。
「初めてならプラス一万出してもいいよ。本番は興味がないし、痛いことも絶対しないって約束するから」
口に出されれば分かりやすい欲求。酒の所為か、はたまた精神的な落ち込みか。上手く働かない頭で性欲の生々しさだけを強く感じた。
「いいですよ」
なんだかもう色々なことがどうでもいい。
倫理観とか、貞操感とか、小難しいことに頭が回らない。ただ一人でいずに済むならこの体の一時的な影響など厭わないと、思考の停止に陥ってしまった。これが世に言う援交かとまるで他人事のように思い、玉城はその男性と近くのホテルへと向かった。
そして帰宅したのがまだ薄暗い空の時間帯。重い足取りで靴を脱ぎ捨て、文字通りベッドへと倒れ込んだ。
(疲れた…)
男性は事前に言った通り玉城を抱きはしなかった。鞄から艶かしいアダルトグッズを取り出しては、玉城の体で試すだけ。あれの何が楽しいのかは分からなかったし、きっと自分はこういう性癖を持ち合わせていないのだと、やけに冷静な頭で感じていた。それでも相手は随分と満足したようで、弾んでくれた万札をポケットから出し力なくベッドへと放る。
(あれで数万…結局は顔か。まぁ、顔もある程度は生まれ持った才能みたいな所あるしな)
楽しかったわけではない。
金が欲しいわけでも、性欲を満たしたいわけでもない。しかし、相手の男性とは別の次元で、満たされた何かが玉城にもあることは確か。暫く呆然と空間を見つめ、携帯電話を取り出すとSNSのアカウントを追加で一つ作った。そこに顔の目元周りを中心に撮った自撮りを添え、いくつかのタグを付けて投稿する。それが始まりだった。
初めて買われた男性には定期的に連絡があり、体の関係なしの食事だけでも需要があることを聞いた。別の客に一度抱かれてからは、負担などを考慮して性行為なしでの関係に売り方を変える。
その頃には玉城のイラストは雑誌に起用され、編集社に何度か出入りするようになっていた。
「君は売れる自信がある?」
担当者を待つ最中、側を通りかかった男性に話しかけられ、意図の読めない質問をされた。後にその男性は著名な小説家である西尾啓介だと知るのだが、あまり活字に触れてこなかった玉城は知るよしもない。編集社の社員だと勝手に思い込んで、された質問の返答を真面目に考える。
「自分は売れると、誰よりも自分で自分を信じなかったら、誰が信じてくれるんですか?」
それは喧嘩を売っているわけではなくて、玉城が本当に思っていることだった。
正直自信家ではないけれど、自分より絵が上手いと感じる相手なら掃いて捨てるほどいるのだから、己を鼓舞して描かなければやってられない瞬間もある。
「いいね、その考え方。君の作品と一緒で僕は好きだな」
「え…あ、ありがとう、ございます」
この反応が正しいのかは分からないけれど、玉城は取り合えずお礼を口にしてみる。そこへ現れたのが担当の男性だった。
「タマさん、すみません!お待たせしてしまって……あれ、西尾先生?」
呼ばれた名前の敬称で、玉城は男性がここの社員でないことに気が付いた。
「先生、こんな若い子にまで手を出すのはやめてくださいよー」
「そんな人聞きの悪い…。僕は彼の作品が気になっただけですよ」
「おっ、それはいい方向で受け取ってもいいやつですか?!」
「あー…っと、そろそろ僕も会議室に来いって担当さんに怒られそうだなー!ってことで失礼します」
おどけて笑い、そそくさと去る男性に玉城はぱちりと目を瞬かせた。
「タマさんやりましたね。もしかしたら近いうちに依頼が入るかもしれませんよ」
「今の方からですか?」
「はい。西尾先生の生業は文章ですが、先生に声をかけられた方の多くは成功します。頑張りましょう」
この時、玉城はどう答えたのかよく覚えていない。お世辞を言われた時のように、曖昧な相槌で聞き流したのだったか。
しかし、その時の玉城のイラストが載った雑誌が発売されて数ヶ月後、西尾啓介という小説家から小さな仕事が入った。
大学卒業後は一般企業には就職せず、フリーランスのイラストレーターとして活動を続けた。学生時代からやっている内容は然程変わらなくて、学校に割く時間がなくなった分だけ収入が増え生活は十分成り立つ。
その反面、外出理由の大部分だった学校がなくなり、人と会わなくなってしまった生活に少しずつどこかしらが綻び始めた。
「タマさん大丈夫ですか?」
久々に会った担当の男性、畑中が心配そうに顔を覗き込んできた。畑中は玉城が本格的に活動を始めてから担当してくれている編集社の社員で、会う頻度で言えば一番高いかもしれない。
「別件の依頼者と会って、大丈夫か大丈夫じゃないかと言われれば、初めて人の顔面をシャベルでフルスイングしたいと思いました」
「それ大丈夫じゃないですよ」
「手元に鈍器があったら危うくネットニュースになる所でした。相手もメールでは丁寧だったのに顔合わせた途端、まだ若いから仕方ないよね、若い子は知らないと思うけど、若いから出来るでしょ……って事あるごとに謎理論かました挙句、君いくつだっけって最後の最後で聞かれて…。こっちの年齢知らねぇのに適当抜かすなよクソが。その悪趣味な髭引っこ抜くぞ。三十六ですとか言ってやろうか」
「いや、見えないですよ。なんならタマさん未成年とか言われても信じられますし」
「冗談です」
散々悪態を撒き散らし、玉城の口から溜息が出る。こんな愚痴を言えるのは畑中の職業、その人柄があってこその信頼だ。
依頼者の酷評を大っぴらに言っては、自分の印象を下げられかねないので控えたいが、溜まるものをそのままにしてはそれこそまた周りから心配されかねない。
「そ、そう言えば西尾先生から差し入れ預かってるんでした!持って来ますね!」
畑中は早足で部屋を出ると、その勢いのまま紙袋を持ってきた。中には個包装のドリップコーヒーらしい物が入っており、いつだったかにカフェラテが好きだと西尾に話したのを思い出した。気を取り直して、なんとか打ち合わせを終わらせ帰宅した自宅は、十一月の日の短さに薄暗く冷えていた。
(豆からカフェラテ淹れてた時期もあったなー……)
一通りは棚に揃ったコーヒー用品だが、今はもう隅に追いやったまま。玉城は電気も点けず電気ケトルでお湯を沸かした。開封した袋から漂うコーヒー豆の匂いはお湯を注ぐと強まり、コーヒーカップに口を寄せる。
芳しさを吸った後、溢れる息に幸せが逃げる気がした。コーヒーに溶かしたミルクや砂糖のように、昼の賑やかさもまた夜に溶けて行く。残るのはいつだってカフェインと寂しさだけなのだ。
そんな玉城の綻びを縫い止めてくれたのは、都会の喧騒に紛れきれない悠太朗だった。
「玉城くんこれもそっちお願い」
引っ越しの当日、二人は新居に次々と荷物を運び込む。お互いの職業柄、予定がなかなか合わず一緒に住もうと言い始めたのは玉城の方だった。
「悠太朗さんコーヒー用品多すぎるってー!」
「玉城くんも靴多い!てか服が多い!!君の体は一つだろ?!」
荷物を運び込んで早々、開けた段ボールに双方の文句が飛び交う。荷造りはそれぞれが行ったので何も思わなかったが、二人が重きを置く箇所は結構違ったりするのだ。
「あー疲れた……」
「引っ越しとかもう十年はしたくない」
「分かる」
粗方の荷物を片付け終え、少し遅めの昼食にコンビニで買ったおにぎりを取り出す。ダイニングテーブルは新調して後日届くので、仕方なく窓辺の床に座って食べ始めた。
引っ越し中は危ないからと、猫たちを悠太朗の実家に預かってもらったのは正解だ。
「ここ、やっぱり窓大きくていいね」
ペットボトルのお茶を片手に、悠太朗が窓の方を見て言った。その言葉に見上げた窓の向こうは晴れ渡り、辟易としていたワンルームの狭い空はどこにもなかった。
「そうですね」
玉城が噛み締めるこの想いは、きっと悠太朗には伝わらない。あの孤独や綻びから溢れるだけの思慕も、指先のささくれもここにはなかった。自分のではない体温と微かなコーヒーが穏やかに香る。
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