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milk ver・同棲前
大人になると時の流れが早く感じるのは、毎日同じことの繰り返しで、子供の頃のように新たな発見がないからと聞く。時間感覚以外でも、大人になると見えなくなるものは残念なことに沢山あった。
学生特有で挙げるならば、自動販売機で売られる百五十円の安っぽいバニラ味。
片手サイズの甘いカフェラテ。
雨の日はスラックスの裾を濡らし、夏の日は下敷きで涼を求め、冬の日は使い捨てカイロをポケットに突っ込んで他愛もない話題ではしゃいだ。
どれも随分と前のことだが、二度と得られない日々を今でも覚えている。そしてその片隅にはいつも、自分とは決して交わらない仲の好きな人がいた。
「悠太朗さんも今アイス食べるー?」
伸びた語尾に意識を浮上させると、冷凍庫を覗く玉城くんの背中があった。僕はゆっくりと上半身を起こし欠伸を噛み殺す。
「……うん、貰う」
もう恋愛感情はないにしても、初恋の相手を夢に見てしまった罪悪感。スプーンとアイスを持った玉城くんが、ローテーブルにそれらを置いた。
「あれ、いつものより良いアイスじゃん」
「そう。このピスタチオ味好きでしょ?」
片手で事足りる小さなカップのくせをして、三百円近くする小賢しいアイスだと思う。
しかしこれも、玉城くんの言う金を払えば間違いなく手に入る幸せの一つ。
自動販売機で売られる百五十円の幸せとは違う。あの幸せはもう買うことが出来ないのだ。それは舌の肥えや価値観の変動などではなくて、他愛ない談笑と、三年間に限定された青さと、戻らない時の貴さ。
引き換えに手に入れた幸せも無論あるにはあるけれど。
「待って。僕このアイスのピスタチオが好きって話したっけ?」
遅れて感じた違和感を口にすれば、玉城くんはスプーンを咥えたまま僕を見つめる。そして再び視線を落とし静かにアイスを掬った。
「柴さんに聞きました」
「え?」
「柴さんとは一回飲んだ仲ですから」
「嘘…!いつ?!」
「前に悠太朗さんの店の前で会った時、何となく流れで行きつけのバーに誘われて」
さらりと放たれた経緯を聞いて、陽キャ同士のフットワークの軽さに置いてけぼりを食らった。僕からすればそんな成り行きはありえない。そもそも、二人はお互い恋敵であるはずなのに、どうして一緒に飲む発想になるのだろう。
「変なことされたりしなかった?」
「変なことって何ですか」
僕の心配に玉城くんは小さく笑った。咄嗟に妙なことを言ってしまったけれど、それぐらいに驚いているのだと察してほしい。
「別に何もされてないですよ。ただ、悠太朗さんで大人気なくマウント取られたので、取り返したことだけは言っておきます。シンプルにウザかったです」
「何やってるんだよ君ら」
そう言いながらも柴くんの性格を思い出して、やりそうだと自意識過剰なことを思った。玉城くんも玉城くんで煽られたら煽り返す性格だし、二人揃って満面の笑みで言葉の殴り合いをしたのだろう。自身は男二人で火花を散らす程の人間だろうかと、見合わない存在に疑問を抱いた。
「前に悠太朗さんも、あのバーで柴さんと一度飲んだそうですね。その時にピスタチオアイスのことを聞いたって」
「あぁ…。そう言や話した気がしなくもない」
「なので現恋人にマウント取るなら、悠太朗さんのちんこのサイズぐらい知ってから出直し来いって言いました」
「はぁ?!」
「冗談ですよ」
「いやいや、やめてよ心臓に悪い。びっくりするわ」
斜め上をいく冗談に思わず大声が出た。それは玉城くんなら言いかねないマウントで、申し訳ないことに想像は容易い。
「既製品の甘いラテしか飲めない人に、悠太朗さんは勿体ないでしょ」
打って変わって真剣味を帯びた声色が呟き、視界に侵入してきたスプーンが僕のカップからアイスをひと匙奪う。それをぱくりと口に運んだ玉城くんは、照れた様子で口角を上げた。
「寝起きに悠太朗さんのカフェラテが飲めるのは俺の特権。アイスを一口貰えるのもね。ほら、溶けますよ」
カップの周囲が柔らかくなってきているのを指摘され、手が熱を帯びているのを知った。
玉城くんは自分のアイスを掬うと、今度は僕の口元まで寄せる。素直に従い、鼻を抜けるラムレーズンのアルコールをいつもより濃く感じた。普段はこんなことなかなかしないくせに、急に甘い顔をするのだから困る。
「玉城くんって酒弱いわりにアイスは専らラムレーズンだよね」
「だって美味しいじゃないですか」
「アフォガードとかは?」
「あー!それは狡い!絶対旨いやつ」
「今度うち来たら作ってあげるよ。これ、僕の特権」
冗談っぽく言うと、玉城くんは空になったカップを片手に含み笑いをする。カーテンを揺らす風は心地よくて、そこまで来ている夏の匂いを感じた。
もしかしたら、子供の頃に目まぐるしい世界で見落としていたものを拾うのが、大人なのかもしれない。
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