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柴田壮真・過去編(milk ver)
自分の恋愛対象に同性が含まれると柴が自覚したのは、高校生の途中頃だった。それまで異性に告白され付き合ったこともあったけれど、暫くして相手からフラれてしまうのがお決まり。同じケースを社会人になっても繰り返しているのは、斜陽が差し込む図書室に今も囚われているからなのだろう。
「柴くんって真面目だね」
高校三年生の秋、柴に向かってそんなことを言ったのは、放課後に図書委員の日誌を書く、制服を着崩さない黒髪の同級生。彼が思う真面目の定義が何かは分からないけれど、少なくとも柴には馴染みのない単語で思わず微笑してしまった。そんな柴の反応に、向かいに座る高草悠太朗が不思議そうな顔をする。
「真面目とか初めて言われた」
「そう?日誌書くの待ってくれてるから…。今までの人は片方が書いてもう一人は帰ってたよ」
「それ言ったら悠太朗もだろ。俺が日誌引き受けるから帰ったら?」
「僕は特に予定ないし大丈夫」
その言い分は少し妙で、心当たりのない予定に柴は考えを巡らせた。するとそれに気付いたらしい悠太朗が、紙上に走らせていたペンを止める。
「彼女、下駄箱の所で待ってたよ」
「え?あぁ、委員会あるって言ったんだけど…。てか、彼女じゃないし」
素っ気ない口調になってしまったのはどうしてだか、柴本人にもよく分からない。その返答に悠太朗が安堵したように見えたのだって、強めの自惚れなのかもしれない。秋の斜陽を思わせる穏やかさがわけもなく好きで、高校を卒業して、年を重ねるごとにその恋しさはより一層強くなっていった。
しかし、柴は耳目を塞いだのだ。自動販売機で売られていた、甘ったるいカフェラテの美味しさと同じ。戻れない時の貴さと、その青さを貴ぶ美化的な記憶なのだと気持ちを捩じ伏せ大人のふりをした。
「柴田とか絶対さぁ、学生ん時から彼女取っ替え引っ替えだろ」
「えー?そうなんですか?」
飲み会の席で同僚から偏見を投げつけられ、柴はどうしようかと返答に迷った。世間的に見てそれなりに容姿が整っている自覚はあって、仕事でも私生活でも上手く立ちまわることが出来る器用な性格。中学生の頃からこの年まで、彼女がいない期間の方が少なかった。
「ガチで好きになった相手とかいないわけ?」
悪気のない揶揄い半分なのは声色で分かった。酒の回った柴が咄嗟に思い浮かべたのは、やはり悠太朗のことでほとほと呆れ返る。三十歳を目前にして、何故だか学生時代の青い初恋ばかりを思い出す。
「いたよ」
「マジで?!」
「どんな人だったんですか?」
柴に本気になる相手がいたことが余程意外らしく、勢いよく詰め寄られた。柴は数秒ほど間を空けたが、それは話すべきか迷ったわけではない。蓋をしていた十年以上前のあの頃に戻るには、やはり少しばかり時間を要した。
「身長高くて…スタイルいいけど、飾りっ気がない感じ。優しすぎるから要領悪いし、なんか全体的に不器用なの見てて可愛いなーって」
訥々と話し、目をやった同僚たちは無言でこちらを見ていた。
「なに」
「いや、かなり意外というか…。俺が知ってる柴田の彼女と系統違う感じがして」
「それは俺も思う。接し方なんて全然分からなかったし、結局告白するどころか殆ど接点もないまま高校卒業したから」
それは柴の中で歯に物がはさがったような感覚でいたのだけれど、最近なってふと後悔なのだと自覚した。そこからはもうなし崩しで、三年半付き合った彼女と別れたのが数日前。知人の結婚式帰り、引き出物のバウムクーヘンを間に挟み、同棲中の彼女と喧嘩をした。相手は柴の一つ年下で、結婚をするかしないかで口論になった。
(いや…。実際は俺がそう思ってるだけで、他に理由があったのかも)
今回の口論は発端に過ぎなくて、交際をする上で我慢ならないことが積もった可能性もある。今となってはもう何もかもがどうでもいいのだけれど、レンタルロッカーに納まるような、そんな私物の少なさに虚しさを感じた。同棲の話を切り出した彼女の部屋へ引っ越す前、柴は家具や家電付きの部屋に住んでいた為、部屋を引き払うと同時にその殆どを手放した。幸か不幸か身軽ではあるけれど、肝心の柴が一歩踏み出せない迷子の途中。
「おーい、柴田?起きてるか?」
飲み会もお開きという状況下で、珍しく許容量を見誤った柴は、同僚たちの声を少し遠くに聞いていた。
「柴田さんって彼女と同棲中でしたよね?」
「だった気がする。電話で連絡してみるか……柴田、携帯貸して。携帯」
喋りながら荷物を漁る同僚を横目に、柴は先日消去した連絡帳の存在を思い浮かべる。
嫌になるのは自暴自棄になった理由が、彼女と別れたからではなく、繋ぎ止めていた琴線が切れてしまったことだ。結局は大人になりきれない子供の我儘でしかない。接点が作れなかったのも、告白する勇気がなかったのも、忘れることが出来ない現状も、全て自分が悪いというのに。
「友達が迎えに来てくれるってさ」
差し出された携帯電話を受け取り、同僚を見上げた柴は小首を傾げた。
「友達?」
「連絡帳に一人だけ残ってた人で…高草さん、だっけ?」
その名前に柴は無言で瞠目した。途端に熱くなる体は酒の所為か感情論か。酩酊も相まって立ち上がると同時に眩暈がして、同僚が肩を貸してくれた。店の外で迎えを待つ最中、柴は自身の動悸が繁華街の雑踏より喧しく感じ、視界の端に映った元同級生に呼吸が浅くなる。
「あっれー?悠太朗?」
パッと笑って見せ、口にした名前。それはあまりに懐かしくて、素っ頓狂に声が上擦った気さえした。高校を卒業してからの十一年間、一度も連絡を取っていないし、在学中に仲が良かったわけでもない。そんな相手を夜更けに迎えに来てくれるだなんて、期待をするなという方が無理な話だった。
「柴くん家どこ?彼女と同棲中なんでしょ?」
同僚たちと別れ、代わりに肩を貸してくれた悠太朗が問いかける。
「んー?追い出された」
「はぁ?!」
「元は相手が借りてる部屋で、俺が転がり込んでただけ。んで、喧嘩して追い出された」
「荷物は?」
「ロッカーに置いてる。家具とかは全くないからラッキーって」
「えぇ…もう、仕方ないな。今夜は近くのビジネスホテルとかでいい?」
「えー?俺のことホテルに連れ込んで何する気だよ」
「何もするわけないだろ!」
悠太朗の慌てる姿に柴は笑い声を上げ、近くの柵に腰を据えた。本当は部屋が決まるまで会社の宿直室に泊まる許可を得ているのだけれど、携帯電話でビジネスホテルを探してくれる悠太朗に、柴はただ投げ出した足を揺らしていた。
あの頃の面影が懐かしくて、そんな中に確実な時の流れを感じて、失ったものと得たものが溶け合って、緩んだ表情を戻すことが出来ない。
「ねぇ、何で僕の連絡先知ってたの?」
携帯電話から少しだけ視線を持ち上げ、悠太朗はなんてことないように問う。その質問は柴を驚かせると同時に虚しさを与えた。しかし、直後にはそれもそうかと納得をする。
「教えてもらったじゃん。ほら、高一の最初に」
高校三年間、クラスだけはずっと一緒だった。接点と言えば本当にそれだけ。入学して早々、連絡事項が張り出された掲示板を確認するのを忘れ、たまたま遭遇した悠太朗に連絡先を聞いて、掲示板の写真を送ってもらった。やり取りはそれだけなのだから、発端など忘れていて当然だった。
「電話帳に他の人の番号がないのは?」
「彼女にふられて、あーもう何もかも面倒くせぇーってなって全て消した。仕事用の携帯は別にあるから困らないし」
学生時代に仲の良かった友達の中には、今も連絡を取っている相手はいる。職場や実家も教えているのだから、連絡先を消去したところで、再び繋がろうと思えばどうとでもなった。
「でも、悠太朗の番号だけは消せなかった」
お互い卒業後の進路を知らなければ実家も分からない。仕事も、自宅も、恋人の有無だって何一つ知らなかった。学生時代に交換したこの繋がりを消してしまっていたら、今こうやって再開する機会だってなかったのだ。
「なぁ、一晩だけ泊めてよ。元同級生のよしみでさ」
繁華街の中心で、未練たらしく最後の希望に縋った。一晩でいい。キスの一つでもいいと思った。電話の一本でここに来た時点で、柴は悠太朗が今も自分のことを憎からず思っている自信があった。あの頃と変わらない、深爪気味の指先と飾らない物腰。笑うと糸目がちな目尻に寄る皺が、十一年の時の流れを鮮明とし、堪らなく好きだと思った。
「ごめん。猫が三匹いて、僕以外の人間にすごい怯えるんだ」
そんな見え透いた嘘は、柴に己の愚かさを痛感させた。悠太朗はもう、あの斜陽が差し込む図書室に囚われてはいないのだ。
「そっか」
静かに納得した後、柴が少し勢いをつけて立ち上がる。まるで頭から冷や水をかけられたように、酔いなんてすっかり薄れてしまった。
「それじゃあ仕方ない。部屋が決まるまでビジネスホテルで我慢するか」
「ごめん」
「何でお前が謝るんだよ。俺の方こそこんな時間に呼び出させてごめんな」
悠太朗を振り返り、溌剌と笑って見せた。恐らく悠太朗は柴が人の肩を借りなければならないほど酔っていないことを、なんとなく察している。
「悠太朗さ」
「ん?」
「好きな人っている?」
真剣みを帯びた声を都会特有の雑踏が追いかけた。ここには斜陽も青春の青い静寂もない。ただあの時と同じ、臆病な質問の弱さだけが残る。
「いるよ」
十一年前にその答えを聞いていたら、今が変わっていたのだろうか。そんな臆病な質問の数ヶ月後、偶然鉢合わせた悠太朗の恋人を、柴は面白半分で行きつけのバーへ連れた。しかし、軽く揶揄うつもりだったのが、敵わないと思わせられたのはグラスを一杯過ごすかという頃。
「悠太朗が言ってたよ。あの子は僕らとは違うって」
柴は吐き捨てるように言い、隣の男の顔を見てはまた一つ腹が立った。学生時代から猫好きな彼が選んだのは、三毛玉城なんて猫を思わせる名前の男で、挙句に自分と同じ系統の容姿で、お世辞抜きになかなかイケメンと呼ばれる部類に入る。
その上、気まぐれな猫のように身軽で何にも囚われない。きっとこの青年は、悠太朗を不安にさせはしないのだろう。隣に立ち、手を取り、一歩踏み出す勇気があった。
「ねぇ、マスター。コーヒーって淹れられる?」
先に帰らせた悠太朗の恋人が退店すると同時に、柴はカウンターの中にいるバーテンダーへ問うた。
「カルーアミルクのこと?それともエスプレッソマティーニ?」
「普通のコーヒー。カフェラテがいいな」
「ここ喫茶店じゃなくてバーなんだけど」
正論すぎるそれに柴は閉口し、それもそうかと。馴染客とは言え流石に無茶な注文だったかもしれない。そう思って別の注文を考えていると、マスターはカウンターの下にある冷蔵庫を開けた。
「メニューにないから高くつくよ」
呆れ口調で言われ、柴は鼻先で微笑を刻んだ。心の内を見透かされたようで、少しばかり気恥ずかしくはある。
「マスターって何だかんだ甘いなー」
「ヤケ酒されるよりマシだからね」
小さなエスプレッソマシンを取り出し、間も無くして漂い始めるコーヒー豆の香り。学生時代に柴が好んで買っていた、自動販売機の甘ったるいカフェラテとは異なり、鼻腔を満たすカフェインに胸が締め付けられた。加糖された市販のカフェラテしか飲まない柴にとっては、正直言ってあまり美味しいものではない。
「にっが」
「シロップ入れる?」
「いや……大丈夫」
「強がりだなぁ。さっきの子だって、前に壮真くんが連れて来た人の恋人だろ?」
「そう」
「初恋相手の今カレと飲むとかどういう心理なわけ?Mなの?」
「別に…」
何が別になのか。その続きを柴が口にすることはなかったけれど、揶揄うつもりだけでなく、悠太朗が惚れ込んだ相手を見てみたい気持ちがあったのかもしれない。結果としてはマウントを取り返され腹が立ったのだが、会わなければよかったとは思わなかった。
「でも、壮真くんならいくらでも相手はいるだろうし、次に行くってのもありなんじゃない?」
「マスター相手してくれる?」
「え?無理」
「おい。少しは迷えって」
「店の客とは付き合わない主義なんだよ。厄介ごとはごめんだから」
「はぁー?何まともぶってんだよ。俺が好みじゃないだけなくせに」
「それも一理ある。でも、前より今の壮真くんの方が人間臭くて好きだよ」
意味深な発言にカップを下ろせば、マスターは心底楽しそうに目尻を結ぶ。こんな時に柴が思い出すのも、斜陽の差し込む図書室ばかりだった。頭一つ分違う上背は秋の穏やかさを纏い、肝心の一歩を恐れていた。
もしかしたらを期待するくせに、そのもしかしたらが怖くて決定的な言葉を飲み込む臆病な自衛。そんな所が自分と重なって見えて、決して同じではなくて、堪らなく愛おしかったのだ。
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