bitter ver後

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bitter ver後

コーヒー用品ばかりが並ぶキッチンと七畳のワンルーム。三匹の猫に埋もれうとうとし始めた頃、枕元で光った携帯電話に現実へと連れ戻された。 (玉城くん?) 最初は見間違いだと思ったけれど、どうやらそうではないらしい。別れた恋人からの連絡だった。寝転んだまま開いた画面には、〝近いうちに一度会えませんか〟と前触れのない一文があった。玉城くんとのトークルームはほぼ最後尾が定位置となりつつあって、最後のやり取りからは約三年経っている。 送り相手を間違えているのではないかと疑いつつ〝どうしたの?〟なんて簡素な返信をすれば、〝予定が合えば会いたい〟と返答にしてはややずれた返しをされた。 (明日は先約があるし…。明後日なら空いてるか) 不思議に思いながらも予定を確認してしまうのだから、どうやら僕は玉城くんに会う気でいるらしい。二日後なら空いている旨を伝え布団に潜ったが、その日は深く寝入ることが出来なかった。 「んで、結局は会うんだ」 翌日、先約の柴くんと仕事終わりに合流し、カクテルのグラスを片手に呆れ全開で指摘される。この類の話を一人で抱えるには荷が重いが、話せる相手と言えば柴くんぐらいしか思いつかなかった。 「そもそも、そんなことセフレに話すか?普通」 「ご、ごめん…。というか柴くんも言い方もうちょっとあるでしょ」 「付き合ってもないのに定期的にヤッてるとかセフレ以外の何なんだよ。それとも俺ら付き合ってたっけ?」 ずけずけとした物言いだが内容は正論でしかなく、僕は閉口するしかない。このバーで柴くんの誘いに乗ったのは、玉城くんと別れた直後だった。元同級生である彼は長年の初恋相手で、玉城くんに出会うまでずっと囚われ続けていたのだが、柴くんと恋人関係にはならなかった。第三者への感情を隠したまま付き合える程、僕は器用な人間ではない。 「まぁ、元カレの代わりでいいって言ったのはこっちだし、今更関係の呼び方なんて何でもいいけど」 柴くんは半ば吐き捨てるように言い、グラスの中身を徐々に減らす。彼の優しさに漬け込んでいる僕が悪いのは百も承知だった。それに、柴くんに恋人が出来れば早々にお払い箱なのは目に見えている。 「そいつとやり直すの?」 先程よりやや小さな声が呟き、柴くんが横目にこちらの様子を伺う。 「いや、どうなんだろう」 「でも会いたいって言われて嬉しかったんだろ?」 続けざまの質問に僕はまた黙り込んでしまった。手放しで喜んだわけではないけれど、不快に思ったわけでもない。玉城くんに会って何を言えばいいのかも分からない。そんな状態で会いに行く選択肢しかない自分のことだって、到底理解は出来ていなかった。 (会ったらなんて言おう…。久しぶり、前に君が描いた表紙の小説を見かけたよ……って、これは流石に気持ち悪いか) 脳内で会話のシミュレーションをするけれど、考えれば考えるほど自然な言葉が思い浮かばない。 「迷うぐらいなら会わなければ?」 その提案にグラスを持つ手が強張った。会わないという選択肢がない矛盾の先にあるのは、思い込みと未練。会いたいわけではないつもりで、本当は玉城くんと復縁をしたいのかもしれない。 「少なくともあっちは悠太朗を嫌ってないだろうし、変に期待させるようなことするなよ。俺に相談したのだって、会ってやればって言ってほしかっただけなんじゃないの?」 今度は若干の苛立ちを言葉の端に、柴くんは眉間に皺を寄せた。それらの発言に欠片も腹が立たないのは、きっと柴くんの言い分に納得をしているからだ。しかし、散々痛い所を突いた彼は、店を出る時には言い過ぎたと謝ってくれた。謝らなければならないのは僕であるはずなのに、柴くんは今も昔も優しすぎる。 翌日、待ち合わせ場所のカフェに随分と早く到着した僕は、見ないようにしていた玉城くんのSNSを開いてみた。仕事の告知や息抜きで描いたらしいイラスト、クロッキー帳のスケッチ。そしてどこへ行っただとか、あそこの何を買っただとか、仕事の合間にある彼の私生活が垣間見えた。 (最近はカフェとかあんまり行かないのかな) 付き合っていた頃は、初めて入ったカフェだとSNSに写真を上げることが何度かあった。無論毎回ではないけれど、あれだけ好きだったカフェラテの投稿が、最近では一切ないことが少しだけ引っかかる。 「悠太朗さん」 懐かしい声に慌てて携帯電話を閉じ、僕は向かいに立つ人物を見上げた。しかし、椅子を引いた玉城くんは僕の記憶とどこか違い、疎外感にも似た何かに駆られる。 「お久しぶりです」 「うん…。三年ぶりぐらいかな」 ぎこちなく頷き、彼の髪色が少しばかり暗くなっていることに気が付いた。そしてアイスレモンティーを注文する姿には、寂寥がひしひしと押し寄せる。玉城くんが好きだったはずの、濃いエスプレッソにミルクはどこへ行ったのだろう。 「急に会いたいなんてどうしたの?」 落ち着かない心を必死に抑え、単刀直入に話を切り出した。前置きを忘れるくらいに僕は動揺していたのだ。 「引っ越しの関係で部屋を片付けてたら、悠太朗さんの忘れ物を見つけたので」 差し出された紙袋には、今の今まで存在を忘れていたシャツが一枚と小説が一冊。 「なんだ。捨ててくれてよかったのに」 「それも考えたんですけど、人の物だと気が引けて」 律儀なのか、若しくは僕に会う口実か。そんな疑いを抱く表面上で、顔に貼り付けた笑みが下手な自覚はあった。シロップで甘くしたカフェラテに鼻先を寄せ、それを見た玉城くんが小さく笑う。 「好み変わりました?前は大抵無糖だったのに」 カップから口を離し、僕は嘗ての玉城くんをそこに見る。注文する飲み物も、髪色も変わったけれど、笑い方はあの頃と変わらない。本来なら三年ぽっちで変わるはずがないのだ。変わってしまったと思うのはきっと、僕だけがあの空間から抜け出せないから。 「よく覚えてるね」 「まぁ、悠太朗さんが嫌いになって別れたわけじゃないので」 憂いの滲んだ呟きと逸らされた視線に、一瞬だけ時が止まった。そして柴くんに言われた言葉が脳裏を掠める。 (変に期待させられてるのは僕の方じゃないか?) あの頃には戻れないと分かっているはずが、彼を見ると無性に過去が恋しくなる。玉城くんの策略なら流されてもいいかなんて、少しでも思ってしまった不誠実さに僕は盛大な自嘲をした。なんとか話題を逸らさなければ、あっという間に彼の手の内だ。 「引っ越しするんだね。前に今の部屋気に入ってるって言ってたのに」 「あぁ…。俺がするわけではなくて、彼女がうちに引っ越して来るんです」 実に軽く告げられた事実に、やっぱり期待なんてするんじゃなかったと。勝手に期待して、傷ついて、玉城くんからしてみれば知ったことではないだろうが、あまりに残酷な現実だった。一層のこと容赦なく嫌ってくれと思った。もし僕が、夜に食事でもなんて言ったら、玉城くんはどうするのだろう。友達に戻ろうと薄っぺらな言葉で、自宅に誘ったりなどしたら幻滅してくれるだろうか。 「そう言えば、誕生日にくれたピアス」 口にされる何気ない単語一つ一つで、こんなにも人間がハッとすることを僕は知らずにいた。 「ずっと見当たらないなって思ってて…。悠太朗さんの部屋に忘れてましたか?」 その問いが故意であろうとなかろうと、玉城くんは底なしに狡い。三年も捨てられなかったのは、ピアスの姿をしたこの感情なのかもしれない。それは未練なんて陳腐な名称では到底片付けきれなくて、一時的な甘い蜜を搾取している己の滑稽な末路だと思った。 僕からコーヒーの匂いがすると、嬉しそうに笑ったあの声が今は少しだけ懐かしい。
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