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 殿様を笑わせる。これは今までにない命令だ。しかも、できないと死ぬ。  でも実際は、できないまま三日経っても彼女はまだ生きている。死んではいないが、心は死にかけていると言っても過言ではない。 「ダメ」 「真面目すぎ」 「つまんない」  毎日朝から夜まで笑いを起こせるようとしたが、何をやってもこのような返事しかもらえない。指導も訓練も何もない。屋敷に来てから、指摘しかない。 「殿様、至らない点が多いかと存じますが、ご指導のほど、何卒よろしくお願い申し上げます」  御広間で昼食を済ませたあと、柏原の前に身を伏せる杉立。 「まず、『殿様』っていう呼び方をやめなさい」 「はい、とっ、柏原様」  柏原は指を口元に当てて、正座をやめて胡坐をかいている。 「結葵殿のほうが響きがいいけど、まあ君にはまだ無理かな」 「申し訳ございません」 「それもやめなさい。すみませんっていい。でもそもそも悪いことをしたわけじゃないし」 「すみません」  上から柏原のため息が聞こえてくる。 「何もいちいち謝る癖も注意して。やたらと謝ってくるのもよくない。笑えるはずのところも笑えなくなっちゃう」 「す、かしこまりました」 「あと、私と話しているときに顔を上げて」  杉立は徐々に頭を上げ、柏原と目を合わせた。また見えた。初めて「なぁちゃん」と呼ばれた日に見たその目差し。 「顔がきれいだから、見えないともったいない」  耳の付け根まで真っ赤になって、杉立は思わず下を向いた。 「あらあら、その癖早く直して」 「はい……」  小さい声で答えてしまった。けれど、「あはっはっ」という笑い声が聞こえる。 「やばい。真央に知られたらきっと怒られちゃう」  真央? 綿川様のことなのか。昔より仲がかなり悪くなっていたとの噂はよく耳にするが、そうではないようだ。 「危ない。危ない」  柏原は深呼吸して、笑いを抑えた。そして扉のほうを見る。 「入っていいよ、りんちゃん」  杉立が振り向いたら、地味な柿色の衣装を身につけている「りんちゃん」はすでに杉立の隣にいた。 「柏原殿、お邪魔しました。」 「いや、ちょうどいい。紹介しよう。菊守(きくもり)りん、私の――何だっけ?」 「町で拾った子分です」  菊守がそう言ったら、柏原は太ももを叩きながら口を隠して笑いだした。 「はい、残念。正解は真央を守る仲間でした」 「はい?」  杉立は柏原と菊守を交互に見て、二三度パチパチとまばたきをした。 「こういう場合はご冗談をお控えください」  菊守は杉立のほうに身を向けてお辞儀した。 「初めまして、菊守と申します。柏原殿の従兄様の友人の知り合いの娘です。よろしくお願いします。」 「私の家族って言えばいいじゃん。そんなの覚えられるわけないよ」 「杉立殿に誤解されたら困ります」 「真面目すぎ同士」  柏原は頭を振り、微笑んでため息をついた。 「真央に何かあった?」 「柏原殿に教えないようにおっしゃっていましたが」 「何? 何があったの?」  菊守はまだ言い終わっていないが、柏原はすでに菊守の腕を握った。 「軽い風邪を引いたらしいです」 「何? 真央今大丈夫? いや、私行ってくる。なぁちゃんの指導お願い」  杉立は目を見開いて、慌てて立ち上げて走り出した柏原を見つめる。先ほどの穏やかな様子と比べて、まるで別人のようだった。 「いつものことなので、慣れれば大丈夫です」 「は、はい」 「さて、練習を始めましょう」  ニコニコと微笑のこびりついた顔が目の前にあって、杉立はまばたきひとつせずに、見惚れてしまった。
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