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 柏原が帰ってきたのはもう夜だった。杉立はそのときまで夕食もとれずに、ずっと菊守と笑わせる技の練習をしていた。ところが、柏原が残していく言葉はたったひとつだった。 「おやすみ」  低い声でたった一言を発したら、振り返って抜け殻のように背中を曲げて出ていく柏原。  杉立はその背中をじっと見つめていた。そしたら、菊守がそっと言い出した。 「きっと真央殿とまたケンカしました」 「どうしてわかりますか」 「いつものことです。今日もう遅くなったので、おやすみなさい」  会釈して立ち上げる菊守。 「お待ちください、菊守殿」 「りんっていいです。私も一応柏原殿の弟子なので」  はい、りん殿、と答えて杉立も立ち上げた。 「このあと一緒に食事しませんか。食べながら桜のにおいがときどき漂ってきてとても風情がありますよ」 「誘ってくれてありがとうございます」  菊守は笑顔で頷いた。 「でも用事があるので、失礼します」  初めての誘い。初めての断り。杉立は再び人の背中をじっと見て、何もできなかった。  なんであんなバカなことを言ってしまったのか……。
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