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白鳳時代
天武十三(六八四)年の二月未明、大きな地鳴りと揺れが相模湾の小さな漁師の村を襲った。村人は逃げ惑い、泣き叫び、津波を恐れ裏山へと逃げ延びた。すると朝靄の相模湾に金の水柱が立ち昇り、ぶくぶくと大きな音を立て、新しい島が生まれたのだ。驚いた村人は、地べたに這いつくばり、海神さまの御子が生まれたと、歓喜にうち震えるのだった。
裏山の高台にナジはいた。十五歳になったばかりの彼は、澄んだ瞳を輝かせ、新しい島を見つめた。
「揺れがおさまった」
ナジは後ろ髪を束ね、拳を握りしめ、浜に向かって一気に駆け下りた。
「まって」
ナジの後を、海女の娘で一つ年下の幼馴染みルリが追う。
「一番乗りするんだ」
獲物を追うような、生き生きした目で、ナジがルリを振りかえる。
「もちろんよ」
ルリは黒真珠のような、つぶらな瞳を輝かせ、ナジに微笑んだ。
森を駆け抜ける二人の背に、太陽の光の束が幾筋も降りそそぐ。耳が切れるほど冷たい潮風も心地よく、彼らは跳ぶように走った。
やがて海藻の腐ったような匂いが鼻に絡みつく。浜が近いのだ。
「俺たちが一番だ」
ナジは一気に砂浜に躍り出た。
「あっ」
追いついたルリの目に、村のおさの真っ白な髪が飛びこむ。
「行ってはならん」
おさは二人を睨み、両手を目一杯に広げた。
「なんでだ!」
ナジはおさを押しのけ、船を出そうとする。
「海神様の島じゃ。行ってはならん!」
「ただの小島じゃないか!」
ナジとおさがもめていると、村人も次々と浜に戻り、二人を取り囲んだ。
その時、漁師の親方が二人の間に割って入り「おまえの気持ちも分かるが、あの島は海神様の島だ。人間が土足で踏みこ込めば、神様のお怒りにふれる」と、諭すように言って、我が子を見つめた。
ナジはひどく落胆して、下唇を強く噛みしめ肩を落とした。
すると、そばにいたルリが、
「いつかきっと機会が来るわ」
囁くように言って、彼の冷えた腕に、優しく手を添えるのだった。
その後、島は立ち入りが禁じられ、村人から大切に祭られると、神ノ島と呼ばれるようになった。
こうして村に静けさが戻りかけたころ、神ノ島に、人魚が現れるようになった。
村の言い伝えで、人魚のあらわれは、天と地の吉凶の兆しなり、とあったので、人魚を目にした漁師たちは、また大きな地震が起きるのではないかと囁き不安に怯えた。
ところが、密かに島の上陸を狙っていたナジとルリは、人魚騒ぎの騒動に紛れ、禁を破って、神ノ島に入ってしまったのだ。
「ついに来たぞ」
ナジはルリを振り向き彼女の手を握った。
するとルリは下唇をきつく噛みながらナジをじっと見詰め、彼の手を強く握り返した。
それから二人は、高鳴る胸の鼓動を抑えながら、ご神体であるこの島の全てに深々と頭を下げた。
神ノ島は思ったより大きく、砂浜は長く広かった。ナジとルリは潮騒の心地よいリズムに耳を傾けながら、砂浜に沿ってゆっくり歩き、何処までも広がる碧い海や、空に浮かぶ神々しい富士山の眺めに心を奪われた。
その日から幾度となく島を訪れた二人だったが、ある日、島を探検しいると、切り立った岩場にパックリ開いた大きな洞窟を発見した。神の懐のようなその洞窟は、不気味なほど深かったが、夏はとても涼しく、外の美しい景色を一望できるので、二人で過ごす秘密の場所となった。やがてナジとルリは愛し合うようになり、神の懐で永遠の愛を誓い合ったのだ。
ところが、夏も終わろうとするころ、ルリは磯で波にさらわれ、決して還ることはなかった。ナジの悲しみはとても深く、彼は神を責め、海を憎み、漁にも出なくなった。しかも不幸に追い打ちをかけるように、その年の流行病で父親と母親があの世へ旅立ってしまったのだ。
こうしてナジの心はさらに深い闇に沈み、幾日も、涙で目を腫らしながら、魂を失った抜け殻のように、浜辺を彷徨い続けるのだった。
海辺の村に冷たい潮風が吹く、ある秋の夕暮れ。ナジは一人外に出て、砂浜をあてどなく歩いた。思い出すのは、潮風に前髪をさやさや揺らし、黒真珠のような、つぶらな瞳で微笑むルリの面影ばかり。溢れる涙で足下もおぼつかなく、ふらふら歩くうちに小さな石ころにつまずき、
「あっ」
と、勢いよく砂の上に倒れてしまったのだ。
気がつくとそこはルリが死んだ磯に最も近い砂浜だった。
「ルリ」
彼女の面影が浮かび、涙が雨の滴のように頬を流れ落ちる。
そのとき、重なり合う波の響きの中に、
「ナジ」
彼をやさしく呼ぶ声がした。
ナジは声がする海の岩場を不思議そうに見詰めたが人影もなく。それでも、暫く声がした方を見ていると、海に浮かぶ小さな岩の陰から、死んだはずのルリが姿をあらわした。
「ル、ルリ……」
驚きの余りナジは呆然と立ちつくした。
「ナジ」
今度は、はっきりと呼び、ルリは黒真珠のような、つぶらな瞳で微笑んだ。
「ルリ!」
ナジは勢いよく海に飛び込み、ルリがいる岩場に泳いだ。
「だめ、危ないわ」
ルリは青ざめ、水の下深くにもぐり、ナジを迎えにいく。
思ったより水は冷たかった。しかも潮の流れはとても早く、暫く漁に出なかったナジは、あっというまに潮に流されてしまった。
気がつくと、ナジは温かなルリの腕のなかにいた。
「ここは」
青ざめたナジの頬に少し赤みがさす。
「神ノ島の、あたしたちの洞窟よ」
ルリは指先で、濡れたナジの髪を梳く。
「神ノ島」
不思議そうにナジは彼女を見つめる。
「ここなら誰にも邪魔されないわ」
温かく柔らかなルリの頬を感じる。
「生きてたんだね」
ナジは微笑みルリを強く抱きしめた。
「ごめんなさい」
ルリは黒い瞳に涙を浮かべた。
「夢じゃないよね」
「夢じゃないわ」
ナジはルリを強く抱きしめる。
「村に帰ろう」
「できないわ」
「どうして」
「まだ気づかないの」
ルリはそう言ってナジから離れた。
「あたしをよく見て」
「……」
「わかったでしょ」
変わり果てたルリの姿に、ナジは言葉が続かなかった。
「だから姿を現せなかったの」
ルリの肩にかかる濡れた黒髪が、月の光で銀色に輝く。黒真珠のようなつぶらな瞳、小柄で華奢な体に変わりなく、ところが腰から下が、まるで魚の尾鰭のようになっていた。
「どうして」
「人魚の血を飲んだの」
「人魚の血」
「そう血よ」
ルリは洞窟の入り口から射し込む月あかりを見つめながら、自分の身に起きた数奇な出来事を静かに語りはじめた。
「あの日、溺れたあたしは人魚に救われ、この島にいたの。だけどあたしは酷い怪我をして、死にかけていた。人魚はあたしを見つめ『もしあなたがあたしの血をのめば命は助かる。でも、あなたは、心が清らかだから人魚になってしまいます』そう言ってあたしを優しく見つめた。生きたかったあたしは、微かな意識の中で『血を飲ませて下さい』と願ったわ。すると人魚は自分の人差し指を貝殻で小さく傷つけ、血を一滴、あたしの唇に落とした。その瞬間、体がとても熱くなって、気を失い、意識が戻った時、あたしは人魚になっていたの」
話し終えたルリは、静かにナジの目を覗った。
二人の間に長い沈黙が続いた。
やがてナジはルリを見つめ、
「びっくりしたけど、今はとても嬉しいよ」
そう言って、微笑んだ。
「あたしも嬉しい」
ルリのつぶらな瞳に涙がにじむ。
「これから、いつも一緒だよ」
ナジはルリの手を優しく握った。
「ありがとう」
よほど辛かったのか、ルリはワッと泣き、ナジに激しく抱きついた。
「もうだいじょうぶだよ」
ナジはルリの背中に手を添え、彼女の悲しみや心細さの全てを受けとめようと、より強く抱きしめるのだった。
二人は洞窟の柔らかな砂の上に横になり、煌めく夜空や、満月の光で鏡のように輝く相模湾を眺めた。
「ルリ、やっぱり村に帰ろう。帰って夫婦になるんだ」
「無理よ。村の人に見つかったらきっと気味悪く思われる」
「おれが守るよ」
「母さんにこんな姿見せられない」
ルリは砂に両手をついて、悲しげにうなだれ、涙を流した。
「見つからないように家の中にいればいい。ルリが出歩けない分、おれが毎日、食べ物や海の水を持ってくるから」
「そんなの無理よ」
「どうして」
「あなたの負担を考えると」
「全然平気だよ。おれはルリが居れば、それだけで幸せなんだ」
「きっと辛い思いをするわ」
ルリの瞳が小さな希望に輝く。
「僕たちは永遠に一緒だから」
ナジが強くルリを抱きしめた。
洞窟の潮だまりには星月の光が反射し、水の波紋にあわせ光りの舞いを舞った。
こうして神ノ島で夫婦の誓いを立てた二人は、夜が明けぬうち、海を渡り、浜辺のナジの家にむかったのだ。
翌日からナジは人が変わったように、朝早く漁に出て夜遅くまで働いた。村の人たちは驚いて、そんなナジを初めは訝しげに見ていたが、それも一ヶ月も続くと「ナジが立ち直った。これで親方も安心して成仏出来るに違いない」と噂し喜び合った。
ナジは家の中に大きな風呂桶をルリのためにこしらえ、そこに海の水をいつも溢れるほど入れておいた。こうしておけばルリの鱗に覆われた腰から下が乾かずにすむからだ。
毎日の食べ物はナジが漁で手に入れた魚や貝や海藻類だったが、時には、山奥の村の狩人と獲物を交換して、鹿、イノシシ、クマ、雉の肉や鳥の卵を持ち帰った。するとルリがそれで美味しい料理を作ってくれた。
ところがそんな仲睦まじい夫婦の生活も半年も経つと、精神的にも肉体的にもナジは疲れ果て、だんだん家に帰る時間が遅くなる。
(家族ならまだしも、夫婦とはいえ元は赤の他人、何で自分が世話をしなきゃならないんだ。すぐ近くにルリの母親だって生きているじゃないか)と不満が積もった。もう我慢できなかった。
そんな時、ナジは村の豪族の十七歳の娘と懇ろになった。するとまったく家に帰らなくなったのだ。
ある日、ナジが久しぶりに家に帰ってみると、ルリのお腹が大きく膨らんでいた。
「赤ちゃんができたの」
ルリは幸せそうに張ったお腹を手で擦る。
驚いたナジが玄関まで退くと、
「あたしたちの子よ」
ルリは腹ばいになり、不自由そうにナジのとこにやってくる。
ナジは密かにルリを裏切っていた心の疚しさから疑心で溢れ、
「子どもがこんなに早く生まれるはずがない。その子はおれの子じゃないだろう。他に男がいたんだな!」
声を荒げ、縋り付くルリを押しのけた。
「あっ!」
ルリは小さく叫び声を上げ、押された弾みで、勢いよく土間に転がり落ちた。
「どうして……」
ルリは苦痛に顔を歪め、大きく膨らんだお腹を押さえながら、土間にうずくまった。
自分のしたことが恐ろしくなったナジは、顔を引きつらせ、ルリを置き去りにしたまま玄関を飛び出した。
ナジが家を飛び出しておよそ半月後のこと、豪族の娘は隣村の有力豪族の跡取り息子と結婚した。あっけなく振られたナジは、仕方なく自分の家に帰ることにした。
(妊娠したルリを土間に落としてしまい、一人、家に残してきたのだ、帰っても、酷く怨み、決して赦してはくれまい)
あれこれ考えながら夜道を歩いていると、いつのまにか、自分の家の前に立っていた。
恐る恐る家に近づくと、窓は閉まっていたが、家の中から灯りが漏れている。
「た、ただいま」
ナジは静かに玄関の戸を開け、家の中を覗き込んだ。
すると、囲炉裏に火をくべながら、美味しそうな鍋を作るルリの姿が目に飛び込んだ。
「お帰りなさい」
ルリは微笑み、目頭に涙を浮かべた。
「ルリ、すまなかった」
ナジは玄関の土間に跪き謝った。
「あなた、お願いだからあがって。寒かったでしょ。一緒に温かな鍋でも食べましょう」
ルリは柔らかな手でナジを上げた。
「う、うん」
ナジは居間にあがりルリと囲炉裏を挟んで胡座をかいた。
「たったいま出来たところなの」
ルリが鍋の蓋を取る。たちどころに部屋中に白い湯気が立ち込めた。
ナジは、笑顔になり彼女を見る。ところが、大きなお腹の膨らみがない。
「お腹の子は……」
ナジはそこまで口にだしながら、恐ろしくなって躊躇った。
「可愛い赤ちゃんが生まれたのよ」
「生まれた」
「あたしたちの子よ」
ルリは母のような柔らかな眼差しをした。
「み、見せてくれ」
「眠ったばかりなの」
「そ、そうか」
「あとで見せてあげるわ」
「楽しみだ」
ナジは自分の子が気になって仕方がない。人間の子だろうか、人魚だろうか、思いを巡らせていると「さ、温まるわよ」ルリが鍋の具と汁を木の椀にたっぷり盛ってくれた。
「わぁ、こりゃ旨そうだ」
椀の中は、たっぷりの汁に、ぷりぷりの魚の白身が沢山盛られている。
「夜、潮が満ちた時、海に出て捕ってきたの」
ナジに椀を渡したルリは尾鰭を横にして座りなおした。
「村の誰にも見つからなかった?」
「大丈夫よ。あたし窓から跳ねたから」
「跳ねた」
「尾鰭でぴょんとね」
ルリは口元に手を添え笑った。
「ぴょんとか」
ナジは大きく口を開けて笑い、魚の白身を口に含んだ。
「すごく美味しい」
「ありがとう」
夫婦に久しぶりの和やかな午後が訪れた。
お酒も飲み、眠気が差したナジは、横になり、ルリを手招きすると、妻の小さな膝頭に頭を乗せ、すやすやと寝息をたてた。
翌朝、ナジは寒さに震えながら目を覚ました。囲炉裏の火は消えていて、開けっ放しの窓から、十一月の末の、刺すような朝の潮風が吹き込んでいた。
「窓を閉めてくれ」
ルリの返事がない。
「ルリ、何処にいるんだ」
起き上がって窓を閉めようとすると、
「やっとお目覚めね」
頭から水を被ったルリが姿をあらわした。
「びしょ濡れじゃないか」
「あなたに魚臭いと言われたくないから、お風呂で体を洗ってきたの」
「ごめん、あれは言い過ぎだった」
ナジは自分の言葉がどれだけルリを傷つけたかと思うと、心が酷く痛む。
「もういいの」
ルリは冷たく微笑んだ。
「そ、そうだ、俺の子を見せてくれよ」
我が子との初対面にナジは胸が高鳴る。
「あなたのせいで流産したの」
ナジの顔は一瞬にして凍りついた。
「す、すまなかった」
ナジは腰が抜けたように座り込んだ。
「信じていたのに」
ルリが刺すような目でナジを睨む。
「覚えてる? 神ノ島で、あたしと永遠に一緒にいるって誓ったことを」
「お、覚えてるよ」
「あなたから、どんなに醜い仕打ちを受けても、あたしには、たった一人のかけがいのない人。だからあなたを赦すわ」
「おれが悪かった。本当にすまなかった」
ナジは床に頭を擦りつけ謝った。
「あたしとあなたは、千年も万年も、いや、永遠に一緒なの」
「本当にすまなかった。でもおれはそんなに長く生きられない」
土下座して謝るうちに、ナジは自分の手や足が、いや、全身が硬い鱗で覆われていることに気付き青ざめた。
「ぎゃああああっ」
獣のような悲鳴をあげながら、ナジは自分の変わり果てた手の甲、手の平とひっくり返し見て、頬に手をあて、目や耳や唇を触った。それから立ち上がり、甕の水で顔を恐る恐る覗き込んだ。
ナジの顔はもはや人間の形をとどめておらず、頭の先端は魚の顔のように尖っていて、目は魚のように瞼がなくまん丸く。歯は魚のようにノコギリみたいで、しかも耳はなく代わりに魚のようなエラになっていた。
「あなたが寝ているあいだに、死んだ赤子を刻んで鍋に入れたの。あなたを人魚にしたかった。あなたも人魚になれば、あたしたちは永遠に一緒にいれると思ったから。でもあなたの心は酷く澱んでいた。だから、あなたは魚人になってしまったの」
ナジは急に気分が悪くなって食べたものを床に全て吐き出した。
「オエー、オエー」
「おれをこんな姿にしやがって」
カッとなったナジは床を蹴るように立ち上がり、ルリに飛びかかった。
「お願い、やめて」
ルリは大きく尾鰭を弾いて、窓から飛び出し、満ちた海に飛び込んだ。
「くそ、待て!」
ナジも窓から海に飛び込み、素早く泳いでルリを追う。
「愛してるの」
「なにが愛だ」
ナジはルリの腕を掴み、抗う彼女ともみ合いながら、浅瀬まで連れ戻そうとした。
その時だった。
「その娘子から手をはなせ!」
罵声を浴びながら、ナジは、固い棒のようなもので後頭部を激しく殴られた。
「ぎゃあああ」
溢れる血が丸い目に入り視界を遮る。
「このやろう!」
村人たちは激しく叫び、執拗に棒で叩き銛で突く。鱗は砕け、むき出しの肉から鮮血が飛び散った。
ナジは村人たちの殺気に戦慄すると、海深く潜り、そのまま魚のように泳いで逃げた。
暫く泳いだナジは、海面に顔を出し、周囲に船がないのを確かめ、神ノ島に上陸した。それからすぐに洞窟にむかった。
「もしかしたら、ルリがいるかもしれない」
ルリに謝りたかった。赦してくれると思わなかったが、こんな姿になったのも身から出た錆なのだと、今更ながら身にしみて思う。
しばらく歩き続けるうちに二人が永遠の愛を誓い合った洞窟に着いた。
「ルリ」
と、小さく呼びかけてみたが、声は空しく木霊するだけだった。
洞窟の中は思ったより温かく、ルリと契りを結んだ砂浜は、あの時のまま静かにたたずんでいた。ナジは砂の上に寝転がり、洞窟の高い壁を見た。ひび割れた鱗や銛で突き刺された傷口は、いつのまにか、完全に治って痛みさえ感じない。
「こんな姿で永遠に死ねないなんて」
やっとナジは、波にさらわれ暫く姿を隠していたルリの気持ちがわかった。
「辛かっただろうな」
深い海の底でルリが一人で悲しみ、やっと地上に戻れたかと思うと今度はおれに裏切られ。そう思うとナジは自分が嫌で嫌でたまらなくなった。悶々と時が過ぎた。眠たくても丸い目は開いたままだ。それでも、いつのまにかナジは目を開けたまま眠りに落ちた。
ぐらっと大きな揺れにナジが起こされたのは亥の刻になったころだった。慌ててナジは飛び起き、砂の上にカエルのように這いつくばった。洞窟の天井から土埃と一緒に、大小さまざまな岩が落ちてきた。大地を激しく上下する地震は、すぐにおさまる気配はなく、ナジが指先一本動かすことも出来ないでいると、入り口付近の岩が大きな音をたてて崩れ落ち、洞窟を外から塞いでしまった。真っ暗な暗闇の中でガラガラと岩が崩れ落ちる音が不気味に響く。ナジは恐怖に震えながら、砂の上で頭をかかえ団子虫のように丸まった。
しばらくして、長い長い揺れが、やっとおさまった。ナジは暗闇の中でゆっくり顔を上げた。辺りは真っ暗だったが、不思議と周囲に何が有るのか分かる。砂の上には天井から落ちてきた岩で足の踏み場もなく、不思議と自分がいたところだけ何もない。神が守ってくれたのだろうか。
「助けてくれ! 誰か、近くにいないか!」
声を張り上げてみたが、洞窟の中で空しく響くばかり。たとえ誰かが来ても、この醜い姿を見れば逃げ出すか、また殴られるに違いない。ナジは諦め、声を上げるのを止めた。それから入り口付近に近づきゴツゴツした岩肌を手で確かめた。大きな岩が隙間なく幾つも積み重なって、完全に外から蓋をしている。
そうこうしているうちに、また大きな地響きがした。ナジは怯え、洞窟の奥へと後ずさりして身構えた。すると、塞がれた入り口の岩山が、大津波で押し流され、一気に洞窟の中になだれこんできた。激しい濁流にナジは巻き込まれ、気を失ったまま洞窟の奥までおし流された。大津波は繰り返し三度襲い、その度ごとに、ナジは洞窟の奥の奥へと流されていった。最後は最も奥深くの、氷で閉ざされた暗闇に打ちあげられ、瞬く間に凍りつき、長い長い眠りにおちたのだった。
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