鎌倉時代

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鎌倉時代

 弘安四(一二八一)年の六月下旬のこと、相模国を地から天に昇る稲妻と大きな地震が襲い、ナジは長い長い眠りから目を覚ました。洞窟の天井の壁は大きく裂け、閉ざされた世界に光が射しこんだのだ。  そのころ地上では、朝鮮半島の合浦を出た、元軍の先遣隊である東路軍(兵四万人・軍船九百艘)が、対馬、壱岐、志賀島と侵攻し、再び壱岐で日本軍と攻防を繰り広げていた。「ここは何処だ」  吐く息は白く、光に浮かび上がる景色は、すべてが氷に覆われていた。天井から幾本もの大小様々な氷柱が下がり、落下する水滴に合わせ、洞窟の底からも氷柱が沢山伸びている。そこは海に浮かぶ、あの神ノ島の洞窟とは全く異質の世界だった。 「光が眩しい、目が焼けるようだ」  ナジを包んでいた氷は溶け、溶けた水滴は岩から染み出た雪解け水と混ざり合い、洞窟を流れる地下水脈と合流した。  「ここは、神ノ島と富士山の洞窟をつなぐ神々の通り道じゃないのか……そうに違いない、おれとルリの秘密の洞窟もこの神々の通り道と繋がってたんだ」  昔、村の神主とおさが神ノ島の洞窟は、富士山の洞窟と通じる神の通り道だといって祭ったのをナジは思い出した。 「この冷たい水は富士山の雪解け水に違いない。だとしたら、地上は富士山の麓のはずだ」  ナジは体に付着している苔や藻を払い、膝を立て体を起こしてみた。体中の関節が軋むような音を発し、全身に激しい痛みが走る。 「なんとか動ける」  洞窟の岩肌は氷で覆われていたが、ナジは爪を立て、氷の壁を思い切り突き、垂直の氷の壁を、ヤモリのように登り地上に出た。 「海は、富士山はどこだ」  辺りは竹藪に覆われ、潮の香りは全くなく、微かに川の生臭い匂いと水が流れる音がする。ナジは水の匂いをたよりに川に向かって、獣道をひたすら歩いた。暫くすると、竹藪が大きく開け、その向こうに河原が見えてきた。  その時、竹藪から数人の兵が飛び出した。 「くせ者! 止まれ」  兵たちは見たこともない鎧甲を着ていた。 「貴様、何処から来た」  顔に半首、体に胴丸をした武者たちがナジに薙刀を突きつけた。 「神ノ島からだ」 「神ノ島だと。ふざけたことを言うな」  激怒した武者はナジの足を薙刀の柄で勢いよくすくった。  バランスを失いドサッと倒れたナジを武者たちが取り押さえる。 「その可笑しな面を取れ」  馬上から胴丸に大袖をつけた頭らしき武将が命じた。  武者たちは、ナジの頭の鱗やエラの隙間に爪をかけ、彼らが魚の面と思っているものを剥がそうとした。 「やめろ!」  ナジは手足をばたつかせ抗うが、五人がかりで取り押さえられ、身動き一つ出来ない。そのうち、魚の生臭さにまじりヌルッとしたものが鱗から出ると、 「ぎゃあああ」  一人が叫び声をあげ、騒ぎ出した。  すると、他の武者たちも悲鳴をあげ、ナジから退き、刀や槍で斬りかかった。 「やめろ! おれは人間だ」  声を上げたが、武者たちは顔を強ばらせ、次々と襲い掛かる。  ナジは川の音をたよりに竹藪を死に物狂いで逃げだした。 「殺すな! 生け捕りにしろ」  武者の頭が声を荒げる。  無数の矢が飛んできて、そのうちの二本がナジの尻とふくらはぎに刺さった。ナジは足を引きずり引きずり逃げ続け、崖っぷちから足を滑らせ、川に転落した。 「死体でもいい、捜し出せ。執権どのにお見せするのだ」  頭の命令で武者たちは川に沿って駆け、ナジを追った。  負傷をおいながらナジは走り続け、数キロ離れた川下から、近くの竹林に逃げこむと、小さな神社を見つけ、拝殿の中に逃げ込んだ。 (誰もいないようだし、ここなら安全そうだ)  そう思い、一眠りしようとしたら、拝殿に人が入ってきた。  宮司が祝詞を唱えはじめたのだ。  ナジは祭壇の後ろに身を潜め、祝詞が終わるのを待った。 「潜んでいてもわかりますよ」  宮司から突然声をかけられた。 「驚かないで下さい」  ナジが祭壇の裏からゆっくり姿をあらわすと、 「伝説は本当だったか」  宮司は動じることなくナジをみつめた。 「逃げないのか」  ナジは宮司の前で身構えた。 「ま、お座り下され」  宮司は驚くどころかナジに薄布の座布団をすすめ、その地に昔から伝わる伝説を語りはじめた。 「今からおよそ六〇〇年ほど昔の白鳳時代、相模湾の小さな漁村で人魚騒ぎがおきた。ある日、村の青年が人魚の血をのんだところ、不老不死と引き替えに魚人となってしまい村を追われた。その後、浜辺の村は大きな地震と津波で滅びてしまった。そういう伝説がこの辺りに伝わっています」 「六〇〇年前」 「もしや、あなたが……」 「わたしは、たったいま、神ノ島の洞窟から出てきました。地震で閉じ込められたのです」 「おそらくあなたの言う神ノ島、今は江ノ島と呼ばれています」 「江ノ島」 「もし宜しければ、あなたの身に何が起きたのか、全てお話していただけませんか」  ナジが宮司の言葉に戸惑っていると、 「あ、これは失礼。わたしはこの照天神社の宮司、光明と申す者です」  光明が柔らかな目でナジを見つめた。  するとナジは安心し宮司の前に座り直して、自分とルリの身に起きた数奇な出来事を全て語ったのだった。 「私には幼なじみのルリという少女がいました。ある日村に大地震が起き、港に大きな島ができたのです。村の長老は祟りがあると言って神ノ島に人を近づけようとしなかった。そこでわたしとルリはある日、その島に上陸することにしたのです。その島はとても美しかった。そしてわたしたちの身に何も起きなかった。そこでわたしたちはそこで逢い引きをするようになったのです。ところがある日ルリが波に襲われて帰ってきませんでした。わたしはひどく落胆して彼女を毎日探し続けました。するとある日のこと磯の岩陰にルリとそっくりの人魚がいたのです。わたしは無我夢中でルリの所へ行った。紛れもなくそれがルリだったから。私たちは抱き合って喜んだ。しかしルリは悲しげな目で私を見た。なんとルリは人魚になっていたからです。波にさらわれたとき命を助けたのは人魚だったのです。ひどい怪我をしていたルリは人魚の血を飲むことで生きながらえたのです。人魚になることと引き換えに。そんなルリを私は愛していた。だから家に連れて帰ったのです。でも長くは続かなかった。自由のないルリに疲れた私は村の娘と懇ろになり家に帰らなくなった。ところが村娘に裏切られた私はしばらくぶりに帰ってみるとルリは赤子を産んだと言うではありませんか。目の前にはわたしのためにと鍋料理がよういされていました。わたしは嬉しくてそれを全て平らげてしまったのです。我が子の肉とは知らずに」 「それであなたは半漁人になったのですね」 「情けない話です」 「あなたは、今でもルリさんを愛しているのですか」 「愛してます。僕らは神さまの前で永遠の愛を誓い合ったのですから、でも」 「でもどうなされましたか」 「ルリが赦してくれるか、しかも、生きていることさえ分かりません」  ナジはそこまで話し終えると、俯いて肩を落とした。  光明はやさしくナジを見つめ、 「入ってきなさい」  といって後ろを向くと、拝殿の戸を開け、巫女が姿をあらわした。  その瞬間ナジは口を開けたままその巫女を呆然と見た。 「ずっとこの日が来るのをお待ちしておりました」  ルリはナジの前に跪き、頭を下げた。  すると、ナジも頭を床に擦りつけながら、 「ル、ルリ。おれが悪かった。どうか赦してくれ」  繰り返し繰り返し泣きながら謝った。 「ナジ、もう忘れて、あたしこそ謝らないといけない。あなたをそんな姿にしてしまい。どうかこれからはずっと一緒にいて下さい」  ルリも涙を浮かべナジの手を優しくとる。  いつの間にか光明の姿がない。気をきかせ二人だけにしてやったのだ。 「どうしておれが此処に来ると分かったんだ?」 「あなたこそどうして此処に」 「わからないが何故か足が向いたんだ」 「人魚も魚人も愛し合うと魂でつながるの。だから魂を交えたあたしたちは何処にいてもわかりあえるのよ」 「それで俺たちは此処に来たのか」 「はい」  ルリは黒真珠のようなつぶらな瞳で微笑んだ。 「ルリ、人間に戻れたんだね」  彼女に尾鰭はなく二本の足で座っている。 「心が濁った人魚がそうなるの」 「人魚の心が濁ると人間に……」 「あたしの怒りや嫉妬が、あなたをそんな姿に変えてしまった。あたしこそ償いきれないほどあなたを苦しめたわ」 「悪いのはおれだ。こんな姿になったのも当然の報いだと思ってる。でもそのおかげで、おれは不死を手に入れ、永遠にルリと一緒にいることができる」 「あなたはその姿でいいの?」 「嫌だけど、もう、ルリと離れたくない」 「ナジ」  二人は膝をつめたまま手を取りあい、やさしくおたがいを見つめた。    翌朝、ナジとルリは光明の大きな声に起こされた。 「直ぐにここから逃げなさい。幕府が君たちを捕らえようと兵を差し向けたそうだ」 「幕府?」 「鎌倉の政権だ」 「ナジ、急ぎましょう」 「さ、これを着るんだ。少しは目立たなくなる」  光明がナジに直垂と長袴、それに深めの笠を持ってきた。 「空が白みはじめた。逃げるなら今しかない」 「宮司さま」  すぐに着替え終え、ナジは振り返った。 「どうしました」 「ルリをお願いします」 「ナジ、何を言ってるの」 「追われているのはわたしです。ルリを巻きぞいにできません」 「ナジどの」 「だめ、あたしも一緒にいく。もう離ればなれになりたくない」 「ルリをこれ以上苦しめたくないんだ」  その時、境内に沢山の蹄の音と、馬の嘶きが響いた。 「ここに隠れていなさい」  光明は二人を拝殿に残し、一人で、境内を埋め尽くした幕府の兵たちの所へ行った。 「おお、光明どのがお出迎えとは話しが早い」  馬上から佐々木頼綱が二重になった顎を上げると、脇に控えていた兵たちが薙刀をかまえた。 「頼綱どの、この物々しさは何用ですか。まさか元の大軍が鎌倉まで攻めてきたとでも」 「なにを惚けたことを。元軍など海の藻屑にしてくれるわ」 「これは頼もしい、鎌倉はあなたに任せておけば安泰ですな。なにしろ巷では、元より恐いのは頼綱よと、民はあなたの締め付けに震え上がってますからな」 「今は戦時だ。幕府に楯突く奴らは弾圧するのが当然だ」 「民は一家の働き手を兵にとられ、食べ物も着る物でさえも、戦時という名目で奪われている。楯突くどころか、鎌倉の郊外の至る所に、仕事を失い、家を失い、食べ物も着る物もない大勢の人々が飢えて死んでいる」 「ほざくな! 国が滅びれば民の命など元も子もなかろう」 「頼綱どのがされているのは、元の侵攻を利用して権力の拡大を図っているとしか思えませんな」 「首を刎ねられたいか」 「どうぞ。お好きなように。だが帝に繋がるわたしを葬れば、あなたも終わりだ」 「うぬが、いい度胸だ光明。ならば神社を焼き払う」 「横暴も度が過ぎますぞ。どなたのご指示ですかな」 「執権どのだ」 「あのお方がそのような馬鹿げたことをお許しするとは思えませんな」 「貴様! 楯突くか」 「恩賞欲しさに手柄を焦っておられるのでは」 「な、なにぃ」  頼綱は刀を抜き馬上から光明の喉元に突きつけた。 「おれならここにいる」  そのとき、拝殿からナジとルリが姿をあらわした。 「ナジどの、ルリどの」 「おう、魚人、また会ったな」 「ナジどの、ここは私が」 「宮司さま、私たちは運命に身を委ねることに決めたのです」  二人は拝殿の階段をゆっくり降りた。  武者たちが不気味さに後ずさりする。 「さっさと引っ捕らえよ」  配下の武者たちが素早くナジとルリを取り囲み縄で縛った。 「鎌倉へ行くぞ」  頼綱は光明を一瞥すると、二人を馬で引き神社を後にした。  そのころ鎌倉では、元の東路軍が壱岐から平戸に向かったとの知らせを受け、政所は緊張の極みに達していた。寧波を出航した元軍本隊の江南軍(兵十万人・軍船三千五百艘)と東路軍が合流するのは間違いなかったからだ。  ところが、一度目の元軍の侵攻の際の恩賞が出ず、生活が苦しくなった御家人らは、幕府に不満を募らせ、二度目の元軍の侵攻にもかかわらず、兵が思ったより集まらなかったのだ。 「国家の命運がかかっている戦だというのに」  執権、時宗の焦りは頂点に達していた。 「頼綱どのが目通りを願っております」  側近が駆けより耳打ちした。 「なに用だ」 「伝説の不死の魚人と人魚を捕らえたと申しております」 「この有事に、あやつめ気でもふれよったか」  側近は頷き慌ただしく出て行った。  館の庭に連れてこられたナジとルリは時宗の前に引きずり出され、縄に縛られたまま土下座させられた。 「これが魚人か。それにしても女の方は、ただの人間ではないか」  頼綱は桶に海水を持ってこさせ、ルリの頭から水をぶっかけた。  すると、ルリの腰から下が、みるみる鱗で覆われ、足は尾鰭となって人魚になった。 「おおっ」  館じゅうがどよめいた。  「これが人魚と魚人か」  時宗は、信じられぬ、といった顔をして二人をまじまじと見た。  頼綱は時宗の側まで来て、 「魚人を使って元の艦隊を奇襲すれば、一人で数千の元軍を壊滅することが出来ます」 「馬鹿を申すな。いくら魚人といっても、矢やてつはうを受けてはひとたまりも有るまい」 「この魚人は死にませぬ」  頼綱が刀の柄に手をかけようとすると、 「魚人、名は何という」  時宗は頼綱を目で止め、ナジに向き直り訊いた。 「名など忘れた」  ナジは時宗を睨み返した。 「魚人、国のために兵になれ」 「断る! おれは人殺しなんて出来ない」 「国を守るためだ」 「国を守る?」 「元と高麗の軍隊がこの国を滅ぼそうと攻めてきているのだ」 「だから何だって言うんだ。ここに連れてこられるまでのあいだ、道ばたに餓死した人間が山ほど転がってた。腐って蛆が湧いたものや、白骨化したものばかり。国を守るならどうして民を大切にしない」 「国を守れるのは武家のみ。民に刀や薙刀を持たせても戦えない」 「だから見殺しにしていい道理はない」 「国が滅びては民も生きてはいけまい」 「この国が滅びようと滅びまいと民は飢えて死に逝く。百姓、漁師、商人、職人、彼ら民なくして、武士が生きていけると思うのか?」 「確かにおまえの言うことも一里ある、だが」 「守っているのはあんたらの地位や権力だろう」  ナジは時宗を遮り叫んだ。 「当然だ。国や民を守るためには犠牲もやむを得ないのだ」 「ならどうして国を守るために、あんたら偉い人たちが、私財を切り崩し、民百姓に分け隔てなく施さないんだ。自分らの懐は膨らますだけ膨らまし、そのしわ寄せは全て民に負担させる。おまけに兵になれだって、そんな虫のいいことが通るはずがない」 「ほざくな!」  頼綱が足蹴にした。 「もう、よい。お前の言い分は分かった。だが、お前には博多へ行ってもらう。兵が足りない。元の艦隊を沈めるのがおまえの役目だ」 「敵も人の子だ。おれは人殺しはしない」 「女房の命がないぞ」  頼綱が口を挟んだ。 「人魚は死なない」 「肉体はな」 「ど、どういう意味だ」 「九州の最前戦には、戦の緊張で欲求不満の武者たちが、ごまんといる。その武者たちを慰めてもらう」  そう言って頼綱はニタリとした。 「なんだと! おめえら、それでも誇り高い武士か!」 「誇り高い武士だからこそ、勝つためには手段を選ばない」 「きさまぁ」  ナジは激高し立ち上がろうとした。 「無礼者!」  直ぐに側に控える兵が固い棒でナジの背中や腰を幾度も殴った。 「やめて! お願いですからやめてください」  ルリは泣き叫び、ナジを魚人にしたことを激しく後悔した。 「もうよい。やめよ。大事な秘密兵器だ」  打ち据えられ、額から血を流し、ナジは地べたに沈んだ。 「どうだ気が変わったか」 「き、協力してやる。だが、ルリには手をだすな」 「わかった約束しよう。武士に二言はない」  こうして、ルリを人質に兵されたナジは、その翌日、頼綱の隊と共に船で博多へ向かった。    そのころ、太宰府から火急の知らせが幕府に届いていた。 「元軍、十万の兵を乗せた、三千艘余りが、平戸に現れました」  政所に駆け込んできた早馬の報告に、時宗をはじめ、その場に居合わせた御家人らは騒然とした。 「まさか平戸に現れるとは」 「壱岐を離れたおよそ四百艘の軍船と合流したもようです」 「博多の防備を見て、側面から上陸しようとしているのだ」 「いや、そんなはずはない、必ず船団と共に博多で戦を仕掛けてくるはずだ」 「クビライは必ず太宰府を奪いに来る」 「十万に対し五万の兵力では勝てない」  政所では時宗を交え評定衆らが議論を戦わせたが、結論が出ないまま時間が無駄に過ぎるばかりだった。 「わたしが五万の兵を集めてみせます」  頼綱の嫡男秀綱だった。 「どう集めるというのだ」 「民から募ります」 「愚かな、民、百姓に刀を持たせても戦は出来ん」  居合わせた御家人らが憤慨する。 「それが不死身の軍勢だったら」 「秀綱殿、気はたしかか」  評定衆の一人が訝しげに秀綱に質した。 「五日ほどお時間を下され。最強の兵を集めて見せますゆえ」  秀綱は平然と返した。 「くれぐれも人の道を外れるな」  時宗はきつく秀綱を睨んだ。  政所を出た秀綱は、ルリを幽閉している父、頼綱の別館へと急いだ。 「出るんだ。お前に恨みはないがお国のために死んでもらう」 「わたしは死にません」 「どうかな」 「何をするつもりですか」 「つべこべ言うな! 庭に連れてこい」 「はっ!」  秀綱の命で側近らが、抗うルリを両脇から抱きかかえ、広々とした庭に引きずり出した。 「やれ」  二人の側近はルリの手首をキツく縄で縛り、庭の太い木の枝から宙づりにした。 「教えてやろう」  秀綱はルリの華奢な白い首を左手で鷲づかみにした。 「おまえを切り刻み人魚鍋を作る」  ルリは青ざめ目に涙を浮かべた。 「おまえの肉を鍋にして飢えた民に食わせるのだ」  側近がルリの足下に人一人が入るくらいの大きな桶を置いた。 「人魚の血や肉を食べた人間は不老不死の魚人となるそうだな。つまりおまえを食った人間は不死の兵士になるということだ。おまえの人魚鍋で百人の魚人をつくり、出来た魚人を殺し、また民に食わせる。そうして繰り返しながら何千、何万もの不死の兵士ができあがるというわけだ」 「地獄に落ちろ」 「あの男を魚人にしたのはお前であろうが」 「……」 「何も言い返せまい。人間の本性は悪だ。怒り、憎しみ、悲しみのままに、夫に復讐したお前は正しいんだ」 「鬼、畜生!」  ルリは自分を憎み、死を覚悟した。 「これでおれは親父より出世できる。恩賞も思いのままだ」  秀綱は高笑いした。 「あんたは魔物に魂を売った人間のクズだわ」 「黙れ!」  激高した秀綱が刀を抜くと、ルリの命は儚く散った。    ルリを殺した秀綱は、鎌倉の郊外で暮らす、住むところも、着る物も、食べる物さえない人々に、江ノ島で温かな汁を振る舞うというふれを出した。なにも知らない人々は、秀綱を心の温かなお武家さまだと感謝し、大鍋に作られた汁を幸せそうに味わった。ところが汁をすすった人々は心が清らかだったので、魚人にはならなかった。男も女も、老人でさえも、みな十代のころの姿、顔立ちにもどり、人魚となって海へ消え去ったのだった。  そのころナジを連れた部隊は、平戸に集結した元の船団が、鷹島に上陸したとの知らせを受け、博多からさらに西へ移動、平戸の水軍、松浦党と行動を共にしていた。 「魚人、おまえは、海深く潜り、元の船団の碇を切れ」  差し出された小刀を脇に刺し、ナジは日が沈むのを待った。  雨がしとしと降り続いていた。 (この戦が終われば、ルリと静かにひっそりと暮らせる)ナジを支えているのはその思いだけだった。  奇襲がはじまった。夜の闇に紛れ、松浦党の水軍が元の船に襲いかかったのだ。大船に小さな船が次々と横付けされ、武者たちが甲板に雪崩れ込み斬り合いがはじまる。  ナジは沖合で船から海に飛び込み、敵の船下深くに潜り、碇と船を繋ぐ縄を鋭い歯で軽々と噛み切った。  海上の戦が長引く中、鷹島に元の主力艦隊が到着すると、日本軍は元の船に火をかけながら、急ぎ引き上げた。 「多勢に無勢、六波羅探題の六万余騎の到着を待つしかあるまい」 「それでは間に合わん。ところで秀綱どのが、五万の兵を集めると豪語しておったそうだが、その後、どうなったんじゃ」  松浦水軍の武将が頼綱に期待を込めて訊いたが「そんな話しは知らん」と頼綱は憮然と返すのみだった。  翌日、七月三十日、風雨は嵐になった。鷹島に集結していた元軍の艦船三千余艘は、激しい風と高い波に流され、次々と沈没していった。ナジは海の下深くからその様子をみていたが、いたたまれなくなり、溺れる元の兵士を助けては鷹島に連れて行き、ふたたび海に潜っては、助けて島に引き返すことを繰り返した。ほんの僅かな人数だったが、それでも夜を徹して助け続けたのだった。  夜が明けると、何万もの遺体が海に浮かび、浜に打ち上げられていた。  ナジは暫く海から陸の様子を覗った。鷹島に大勢の元の兵士が取り残されている。難破を逃れた船が鷹島に上陸した兵士を見捨て、引き上げたのだ。  平戸や唐津に流れ着いた元の兵士は次々と捕らえられ、首を刎ねられた。  鷹島に見捨てられた何万という元の兵士も、次々と撫で斬りにされ、捕虜となった者も首を刎ねられ、島はまたたくまに血の海となった。 「やめろ! もう降伏してるじゃないか」  ナジは阿修羅のようになって殺戮を続ける頼綱を制止した。 「うぬが、敵を助けよって、貴様も殺してやる」  頼綱の配下の兵がナジを土下座させ、頭を押さえつけた。 「斬るならさっさとやれ。だがルリには手を出すな」 「冥土の土産にいいことを教えてやろう」 「どういうことだ」 「おまえの人魚妻は死んだ」 「なんだと!」 「嫡男がお国のためによかれと思ってやったことだ」 「なにが武士に二言はないだ。貴様、それでも武士か」 「黙れ! この裏切り者が。貴様、敵前逃亡したあげく、敵の兵を助けたな。軍規違反、死罪だ」 「勝手に兵にして死罪だと。笑っちまうぜ。まあ、これで死ねるんだ。有り難いといえば、有り難い。感謝するぜ」 「うぬが、開き直るか」 「これでおれも、あの世で妻と一緒に幸せに過ごせる。死ねない苦しみからお前ら馬鹿親子が俺たちを救ってくれたんだ。さっさと斬りやがれ」 「この減らず口め。刀の錆にしてくれるわ」  頼綱の目が据わり、太刀を大きく振り上げた。  そのとき、 「待たれよ」  頼綱の刀を持つ腕が誰かに強く握られた。 「じゃ、邪魔するな」  見れば、同じ船に乗って夜襲をかけた松浦党の武者だった。 「頼綱どの、これを見られよ」  と指し示したのが、嵐で浜に打ち上げられた、元船の切れた沢山の碇だった。 「そ、それがなんだ」  頼綱はそれでも太刀を持つ手を降ろさなかった。 「魚人も戦ったのだ」 「こやつが切った証拠はない」 「いや、ある、打ちあげられた碇の縄の切り口がみな同じだ。そして同じ長さに切りそろえられている」  そこまでいわれると、頼綱も太刀を矛に収めた。 「さっさと失せろクソが!」  頼綱はナジの横っ腹を足蹴にしてその場を立ち去った。 「魚人どの、大丈夫か」 「たいしたことはねぇ」 「ところで、名はなんと申す」 「忘れた」 「そうか」 「もうこれ以上無抵抗の敵を殺す必要はないだろう」 「その通りだ、我らは勝った」 「人間は自分と異なるものを、どうして認めたがらないんだ。違うと言うだけでおたがいこんなに憎み合い殺し合う」 「魚人どのが生まれた時代は、よき時代であったのだろう」 「いや、人間は変わんねえ。おれが生まれた時代も、この時代も、人間は自分と異なるものをすぐに排除したがる。臆病で心が小さいんだ。しかも何もかも自分の物にしたがる。欲が深すぎて鬼のようだ。  おれの時代は貴族が権力と所領の奪い合いをしていたが、この時代は武士と貴族が権力と所領の奪い合いをしてやがる。  ここに連れてこられるあいだ、いろんな物を見てきた。民の暮らしも変わんねえ。上の人たちの争いにいつも民が巻き込まれる。働き盛りの男は兵にとられ、女は男の慰みものにされ、子供は飢えて死ぬか、小さな頃から盗みや、人を殺すことを学ぶ。飢えで人の心は荒み、心が荒むと人は人を平気で傷つけるようになる。お上はそれを利用して百姓を兵にする。ところが、戦がなくなればお払い箱だ。  そうしていつも民は生活の苦しみからおたがいを傷つけ合う。まるで無限地獄だ」 「おれも好きこのんで戦をしているんじゃねぇ。ほんとなら海でのんびりと漁でもしながら暮らしたい。だが、自分一人がそれを望んだからといって、戦がなくなるわけじゃない。お前さんが望んでる世界になるには、この国の、いや、海を渡った他国の人々でさえもお前さんのような考えをもつようにならなきゃなんねえ」  ナジはまじまじと水軍の武者を見た。 「あんた漁師だったのか」 「ああ、そういうあんたも漁師だろう」 「通りで」 「おれの配下の者に命じてあんたを相模国まで送り届けよう」 「ありがとう、だが、断る」 「我らが安全に送り届けてやるぞ」 「人に見られるとまた気味悪がれ罵られる。それに、おれは海を泳ぐほうが早い」 「なるほど」 「あんたのような真人間が増えるといいが」 「……ところで人魚の遺骨を拾いに来た宮司がいたそうだ」 「宮司が」 「照天神社の宮司だったそうだ」 「光明どのが……」  そう聞くと、いてもたってもいれなくなり、ナジはすぐに立ち上がって、 「かたじけない」  武者に小さく頭を下げ海に姿を消した。  島の至る所で、元の残党狩りが行われ、悲鳴が途絶えることはなかった。捕虜となった何万もの元の兵士のうち、古くから交易のあった南宋出身の兵は奴隷にされたが、残りは全て首を刎ねられたという。  相模湾に着いたナジは、真っ先に神ノ島に行った。ルリと遠い昔、一緒に過ごした二人の洞窟を探した。大きな地震と津波ですっかり姿は変わっていたが、確かに洞窟は昔のままみつかった。海に繋がる潮だまりも、小さな砂浜も昔のまま佇んでいた。  島から浜辺を見渡したが、生まれ育った村はなく、山の地形も港の景色も大きく違っていて、神ノ島がナジの村があった浜と繋がっていた。ただ、変わらないのは、美しい富士山だけだった。 「もし本当にルリの遺骨が神社に埋葬されているのなら、ルリの魂が、おれを導いてくれるはずだ」  夜になると、ナジは闇に紛れて陸に上陸し神社を目指した。場所はわからなかったが、魂に導かれるがまま走り続けた。  走り続けるうちに、山の中の洞窟の裂け目を飛び越え、相模川を渡り、竹林を駆け抜けた。 「神社だ」  竹林の中に見覚えのある小さな神社を見つけた。  夜だというのに拝殿は開け放たれており、ろうそくの光が風で揺らめくのが見えた。  夏虫のリンリンリンという鳴き声が幾重にも重なり、風が吹く度に笹の擦れ合う音がさざ波のように響き渡る。  ナジは音を立てないよう、静かに拝殿へと近づいた。  すると聞き覚えのある声で、 「お待ちしておりました」  光明が姿をあらわした。 「どうして」 「あなたが博多を発ったという知らせが届きました」 「松浦党の」 「そうです。親切に知らせて下さりました」 「宮司さま」 「お上がり下さい」  ナジは勧められるまま拝殿にあがった。  光明は外に誰もいないのを確かめながら拝殿の戸を閉め、 「これがルリどのの」  それ以上何も言わず、真っ白な絹に包まれた小さな骨壺をナジに手渡した。  ナジは静かに袋をひろげ、骨壺の蓋を丁寧に開け中を覗き込んだ。すると、中には小さな骨がたった一つ入っていた。 「う、うっ」  ナジは壺を抱きしめむせび泣いた。 「守ってやれなくて、本当に申し訳ない」 「これでルリはやっと眠ることができたのです。きっと天国で喜んでいると思います」 「ナジどの」  光明はナジの手を握りしめた。 「ルリを海に帰してやろうと思います」  ナジはそういうとスッと立ち上がった。 「江ノ島が、いや、神ノ島が宜しいかと」 「そうするつもりです」  ナジは光明に頭を下げ、ルリの壺を握り締め、再び夜陰に紛れて竹林の中を駆けた。  夜明け前に神ノ島に着きたい。誰もいない神ノ島で、ルリを海に帰してやりたい。遙か遠い昔、神ノ島を目指し二人で山を駆け下りた思い出が蘇る。  ほどなく相模湾にでた。まだ空は星々が煌めいている。周囲に人影がないのを確かめ、ナジは海に飛び込み、神ノ島に上陸した。 「ルリ、海へ帰しやるから」  ナジは小さな骨を壺の中から大切に取り出し、手の平に載せた。 「ルリ、おれはまだまだそっちへは行けないけど、神さまの許しが出たら、きっと迎えに行くから」  ナジは丸い目から涙をハラハラ流し、小さなルリの骨を洞窟の潮だまりに沈めた。  すると、シュッ、と泡立つ音がして、潮だまりの中にルリが姿をあらわした。 「ル、ルリ」 「あたし、どうしてここに」 「ルリが、ルリが生きかえった」  ナジは腰を抜かし砂の上に尻餅をついて座り込んだ。 「あたし」  潮だまりの中でルリは不思議そうに手や体を見ている。 「ルリ」 「ナジ」  ルリは潮だまりから跳ね上がり、ナジに抱きついた。 「無事だったのね」 「う、うん」 「よかった」 「ルリ」 「あたし今まで」 「生きかえったんだ」  二人は砂の上でお互いを確かめるように激しく抱き合った。  洞窟を月明かりが照らし、繰り返す潮騒の音が二人の心を癒やしてくれる。  静寂が二人を包みこんでいた。  全てが平和だった。 「もう、あなたも人魚になれるわ」 「おれが、まさか」 「あたしには分かるの。人の魂の清らかさや、心の美しさが。あなたの心も魂も金色に輝いてる。あなたが思えば人魚になれる」 「おれも人魚に」 「思ってみて」 「う、うん」  いわれたとおり、ナジが目を瞑り思ってみると、体が焼けるような熱さに包まれ、彼の顔を含む上半身は人間に戻り、腰から下は人魚の姿になった。 「ほ、ほんとだ!」  ナジは嬉しさの余り刎ねすぎて、ドボンと広い潮だまりの中に落ちた。 「ナジ、大丈夫」 「平気さ、このほうが泳ぎやすそうだ」 「その姿もなかなか素敵よ」  そういって、潮だまりの中にルリが入って来る。 「いったいどういうことなんだ」  ナジは不思議そうにルリを見つめる。  ルリは黒真珠のようなつぶらな瞳で、ナジにやさしく微笑みながら、海の宮殿で人魚たちから聞いた話しを語りはじめた。 「はるか太古の昔、この世界が全て海だったころ、この世に人間はいなかったの。ある日のこと海に小さな島が出来た。すると陸に憧れる人魚たちが現れたの。一人、また一人と。やがて大勢の人魚が島に上がり、狭い島の奪い合いがはじまった。  欲の目覚めだった。  すると人魚は魚人になった。  魚人は欲のために嘘をつき、島を独り占めしようと殺し合いをはじめた。  悪の目覚めだった。  すると魚人は人間になった。  こうして陸にあがった人魚は人間になって、真の愛を忘れたと言われているの」 「人間の本当の姿は人魚だったのか」 「いつかきっと陸の人魚も愛に目覚める時が来ると思うわ」 「でもまだまだ時間がかかりそうだね」 「残念だけどそうみたいね」 「おれはもう人間として生きることにうんざりした。もう殺し合いや、憎しみ合いはまっぴらごめんだ。これからは、母なる海で、永遠にルリと一緒に楽しく幸せに過ごしたい」 「あたしもあなたと一緒よ」  二人は見つめ合いやさしく唇を重ねた。 「行こうか」 「はい」  ナジとルリは優しく手をつなぎ、指を絡め、碧い海へ入っていった。すると沢山の人魚が微笑み、二人の幸せを祝ってくれた。                                      おわり
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