マサキ

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マサキ

 アパート裏のだだっ広い駐車場の端っこには、四トンの箱付きトラックが一台停めてある。砂利を敷き詰めた駐車場だと、特に、ディーゼル車は、独特のエンジン音も相まってそのトラックが戻って来たのは直ぐにわかった。朝、お袋を病院に送っていく時間帯にはすでに出て行ったあとで、早い日はまだ日が高い六時頃、遅い日は九時を過ぎて戻って来る。アパートの住人の顔はほとんど知らなかったし、もちろんどんな仕事をしているのかも知らなくて、だからそのトラックが誰なのものかなんてことは考えたこともなかった。  八か月も前に別れた元カノのアズサからメールが届いたのは、その前日の夜だった。 『お父さん入院してるって聞いた。毎日ちゃんとご飯食べてる? ちゃんと寝られてる? カズ君繊細やから、心配してる。何かあったら連絡ちょうだいな? 』  飯は毎日食えてたし、毎晩、ちゃんと寝れてた。別れた女に、それも、友達とセックスしてた女に心配されるほど、俺は疲弊なんかしてない。それなのに、アズサからのメールをアホ臭いとスルー出来るほど大人でも、黙れよクソビッチと返信できるほど子供でもない俺は、言葉の向こう側に、ありもしないアズサの気持ちを読み取ろうと、繰り返し白い吹き出しを眺める不毛な時間を過ごした。苛立ちを紛れさせる為に、一晩中吸い続けたタバコは、もう一本も残ってなかった。あと何時間もすれば病院に向かう途中、コンビニに寄ることだってできたのに、ニコチンが切れてることを自覚した途端、そのことを一秒も忘れられない依存症じゃ、その何時間が我慢できない。パーカーを羽織って表に出たのは、まだ朝日が、遠い山の向こうで燻る明け方のことだった。  同じタイミングで表へ出たのかも知れない。隣室の玄関先に、柑橘類の苦味のある匂いを引き連れて、マサキは居た。生木や湿気た土の匂いに混じり切らないマサキの匂いは不自然で、やけに人工的だった。ツナギの作業着を腰まで下ろしたマサキは、冷え込む朝だっていうのに、タンクトップ一枚の薄着だった。露出した筋肉質な腕では、独特のグラデーションで描かれた滝の中を、赤い鱗の鯉が下るのが見えた。ミチオのとは全然違う、マサキのあれは和彫だ。  女と暮らしてるんだと思ってたから、同居人が男だったことに驚きはした。だけど、ミチオが誰かを怒鳴りつける姿を想像できなかったことに納得もした。ミチオが誰にでも尻尾を振る飼い犬なんだとしたら、マサキは誰にも懐かない野良犬だ。横目で投げ捨てた、その無機質な視線に、腹が立ったのをよく覚えてる。まるで、アスファルトに捨てられたゴミになった気分だった。あんなものに関心を払う人間がいないのと同じで、マサキも俺に関心がなかった。駐車場へと向かったマサキの背中を見送りながら、しばらく動けなかったのは、マサキにまたあんな目で見られるのが嫌で、だけど、その苛立ちをマサキにぶつけることも出来ないからだ。ディーゼルエンジンの音が聞こえて来ると、砂利を踏むタイヤは、近づいてそれから遠のいた。 「マサキ、会ったことある?」 「ないと思う」  どうしてそんなくだらない嘘をついたのかは、自分でも分からない。もしかすると、ミチオに知られるのが嫌だったからなのかも知れない。 「ホントは、良い奴だよ」  ホントは良い奴。ミチオの台詞は意味深だった。  病院から街までのバスは一時間に三本も出てるのに、病院からアパートに向かうバスは一本もない。このクソみたいな炎天下の中、病院まで歩いて来たって言うミチオに、アパートまで送って行く事を提案したけど断られた。一時間はかかる日陰のない道を歩いて帰るんだし、それなりの理由があるんだろうけど、ミチオはそれについてはっきり言わなかった。だから俺もそれ以上は突っ込まなかった。ミチオは別れ際、意外にも「大丈夫じゃん? 病院デカいし」と、二週間前からICUにこもったまんまの、ウチの親父を気遣った。  ミチオがそんな事を言ったからか、親父はその日の夕方、二週間ぶりに意識を取り戻した。 「お父さん、わかる?」  ICUの片隅に置かれたベッドの脇で、お袋は親父の、クリームパンみたいに浮腫んだ手を握りながら声を掛ける。親父はお袋の方を一瞥すると、すぐにテレビに視線を戻した。テレビでは古くさい時代劇が再放送されてて、二十二年連れ添った妻より、遊び人の名奉行が気になるらしい。お袋は、お父さん、和徳も一緒やで。と、話しかけ続けた。  ICUに入る前、看護師から意識はあるけど、ぼんやりしてる。と、教えられてた通り、親父は上の空だ。自発的に呼吸が出来ない親父の喉には、酸素呼吸器から伸びたビニールチューブが繋がってる。シューシューとベッド脇のボンベが親父の代わりに酸素を吸って、二酸化炭素を吐き出す。  正直、意識が戻ったからって、親父になんて声を掛ければ良いのかはわからない。もう随分長いこと、親父とは会話らしい会話はなかった。特に引きこもるようになってからは、大学を辞めた後ろめたさや、成人としての義務を果たせてない背徳感もあって、顔を合わせることを避けてた。だからか、こうして久しぶりに親父の顔を見てみて、考えたことと言えば、こんなに小さかったっけ? ってことだった。
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